発端
五月病というものがあるらしい。
新しい環境に適応できなかったためにかかる、うつ病に近い症状のことを言うと、調べて知った(最近では、「新五月病」「六月病」とも呼ばれているらしい)。
そんな私は、6月病だ。
俗に言われる「五月病」の別名ではない。
6月になると突然、湧き上がる感情がある。それが抑えきれなくなるのがちょうど6月。だから私は、そう呼ぶことにしている。
気が付けば、5月も終わりを迎えた。もう6月だ。
その6月も半ばに差し掛かり、関東も昨日梅雨入り宣言がされた。
今年はもう、・・・もしかしたら・・・あの抑え込めない感情は、今年は来ないかも、と、ほのかに期待していた。
けれど・・・・・・。
(ダメだ……)
そう、心の中で呟く。
もう、我慢ができない。いままで堪えていた感情が、溢れ出る。
きつく、きつく縛り閉じ込めていた「心の中に棲む獣」が、ここから出せ、と咆哮をあげる。
ギシギシと縛る鎖が軋む。のた打ち回る獣に鎖はきつく喰い込んで、普段ならそれでおとなしくなるはずだけれど、いまは6月。戒めが一番弱まる時期。
(ダメだ……)
帰り道。
駅へ向かう道すがら前を歩くスーツ姿の群れ。
チリ、と心の中が焼き付く。
『解放セヨ』
心の中に棲む獣が囁く。
(ダメだ…)
もう、抗えない。
誰にも聞こえない、それでも私の耳には確かに聞こえる、鎖の解ける音。
それが聞こえた瞬間、私は自我を捨てた。
途端、目の前のサラリーマンが悲鳴をあげた。
「ぎゃあーーーーーっ!!」
叫んでサラリーマンは、ばたりと倒れた。ざわめく。なにがあったのかと、それでようやく数名が立ち止まる。
「どうかしましたか?」
今の世の中では珍しく真っ当な良識の持ち主が、倒れた男に向かって声をかけ・・・ヒッ、と短く悲鳴をあげた。
「き・・・きゅうきゅうしゃ、救急車を…誰かっ!」
ざわめきが広がる。
「警察も・・・誰か。あ、アンタ…っ」
良心的な男性は私を見て顔面を蒼白させる。
それで、何が起こったのか、察したようだった。
そう、倒れたサラリーマンを刺したのは−−私だった。
* * *
理由なんてものはない。
ただ、刺したかった。それだけ。
いや違う。
殺したかっただけ。
無性に人を殺したくなる。
意味もなく、理由もなく。
ただただ人を殺したい。
その衝動が抑えきれない。
人を殺してはいけない、などという人のルールは関係なくなる。
ただ本能の赴くままに、目の前にいる人間を殺して、殺して、殺して・・・。
それだけが欲求。
普段は理解している。
理性という名の鎖できつくきつく締め付けて、我慢しているそれが、とうとう枷をはずされた。
その瞬間、私は人を刺していた。
周囲はソレに気づいた途端に悲鳴を上げ、私の周りから逃げ出した。
目の前には倒れたサラリーマン。背中を切りつけられた。
驚愕の表情で見つめる男性。慌てて取り出した携帯電話を、ポロリと落とした。
「ひ・・・ひとごろしぃーーーっ!」
金切り声を上げたOLらしき女性は、うるさい悲鳴で逃げていく。
あたりがざわめく。
それを、|他人事〈ひとごと〉のように聞きながら、私は少し笑った。
なんだか、とっても滑稽。
手にしていたナイフを握る手に力を込める。振り上げた。
携帯を取り落とした男性に向かって振り下ろす。
ギャッと短い呻きをあげて、男は倒れる。
「誰かぁーーーーっ、誰かあっ!」
悲鳴は伝染する。
それをなんとなく楽しみながら、私は目の前に立ちはだかる人々に向かってナイフを振り回した。
程なくして、パトカーと救急車のサイレン音が響き渡った。