79、約束
ヘンリーは再び考え込み、僕は更に言う。
「そこは森の奥の方にあり、石炭の埋蔵も確認されていません。これくらいは補償としてもらってもいいでしょう」
僕は簡単な森の地図を書き、位置を示した。広大な森に比べれば、ほんの小さなスペースだ。ヘンリーはそこをまじまじと確かめた。僕のもくろみが理解できないのだろう。
「…そこを君は何に使うのかね? エルフはもう住んでいないのだろう?」
「僕が暮らします。そして森の獣たちの一時的な保護を」
そう、エルフ達は地下へ逃げられるが獣たちはその道がない。だからエルフ達の代わりに獣たちを保護し、新しい生活場所となる森へ死ぬまで送り続ける。それが僕の考えたせめてもの償い。
ヘンリーはさらさらと計算をして、いくつもの書類を見比べていたようだがやがて頷いた。
「いいだろう。そのぐらいなら」
「僕が生きている間は、その区画に手を出さないことをお約束ください。そこに存在する、獣一匹、木一本殺さないことを」
「かまわない」
「それなら、きちんと署名してください」
ヘンリーと僕は正式な契約書をしたためた。僕は穴一つないか細かく条件を付けていく。もしも、それが破られれば公平な交渉をすると有名なヘンリー・ウィンスレットの名は地に落ちるだろう。ようやく、すべてが書き終わったときには入ってくる日差しは朱色に変化していた。疲れのため倒れ込みそうなところでようやく一息ついた。
「ありがとうございます」
しっかりと、それを受け取り、大切そうに胸に抱きしめた僕に彼は不思議そうな目で見て、呆れたように言った。
「全く君はどうかしているな。そのままその経営手腕の能力を活かしていればきっと素晴らしい経営者に慣れただろうに。けれどもその才能には目もくれないで森を守り、獣たちのために長い残りの人生を使おうというなんて」
「今更、進路は変えません」
ヘンリーは肩をすくめ、ゆったりと椅子に背を預ける。
「ああ、特に私が何を言っても無駄だろう。けれど思うんだよ。何が君のその才能を捨てさせてまで、今もきっと将来も何の利益にもならない、私にとって見れば無駄なことに突き動かすのかと」
僕は一瞬黙ったが、首をすくめて立ち上がった。
「あなたが分からないもの。…強いて言えば愛じゃないですか?」
彼女と会わなければ僕の人生は大きく変わっていただろう。ヘンリーは一瞬押し黙ったがやがて吹き出すように笑った。
「愛か! なるほど私が理解できないものだ。しかし、人間多数の者が分かるのに私だけ分からないものがあるとは悔しいなあ。今度、パーティーで努力してみようか」
好奇心旺盛らしいヘンリーはまだ口に笑みを浮かばせていった。
「いつか私もいつかわかるようになるかな」
「さあ、どうでしょう。恋はするものではなく落ちるものと言いますから」
「なるほど」
まるで子どものように笑う自分の父に僕は頭を下げた。最後の最後まで固い口調で言う。
「…それではヘンリー殿、失礼します」
「ああ、末永くお幸せに」
その言葉は皮肉だったのか、それとも祝福の言葉だったのか分からなかった。
背後でドアが閉まる。僕はただ彼女、シャインと会うためよろけそうになる足を鞭打ち、歩き出した。
廊下に歩いていたメイドに彼女の場所を尋ね、何千里も歩いたように思えたとき、ようやく倒れ込むように彼女のいる部屋を開けた。
床に倒れんばかりの僕の耳を快い声が打った。ああ、この声を聞くために僕は…。
「クリストファー!」
ふわりと花の香りがしたかと思うと心配そうな彼女の顔が映った。透き通るように白い肌と対照的な緑の瞳が目に染みる。
「大丈夫だろうか。顔色が悪い」
ぐらりぐらりとする視線の片隅に同じく心配そうに僕を見つめる母の姿を見つけた。二人の愛する女性を見ると僕はほっとするのと同時に胸が刺されたように染みた。
「シャイン。ごめん…」
疲労によって、身体が崩れていく。眦から我慢してきた涙が一粒流れ落ちた。
「僕は、君たちを守れなかった」
困惑の表情を浮かべた彼女を最後に僕の意識は闇へと落ちていった。
夢は悪夢だった。
例え、エレヴェンダー王が森の終焉を受け入れたとしても僕はそれが自分の招き起こした結果なのだと後悔せずにいられなかった。もしも、僕がこの森へやってこなかったら、彼らは自由を脅かされることはなかっただろう。




