7、現実
僕は彼女が待っていると言われた母屋へ行き、初老の男に再び案内されて再びオーナーのプライベートの家に足を踏み入れた。そこでは宴会の最終日と言うばかりに盛大に騒がれていた。農場の近くに住んでいる近所の上級階級者が贅沢な衣服に身を包み、グラスを片手に談笑している。振る舞われている料理の質も明らかに豪華だ。しかし、肝心の主人の姿は見えない。僕がきょろきょろ見渡しているとき、近くから声がした。
「クリストファー!」
赤みがかったドレスに身を包んだシャロンが駆けてきた。丸い頬がリンゴのように赤く染まり、なかなか可愛らしい。
「お嬢様」
僕は母から聞いたように、身分が上の方への礼として深々と頭を下げた。
「まあ、クリストファー、シャロンでいいと言ったのに」
すこしはにかみながら僕の襟を直した。
「服、お似合いよ。髪を分けた方があなたの綺麗な青い目が見られてすてきだわ」
「すみません。洋服頂戴しています」
「いいのよ。あなたはこれからもずっとこうした方がいいわ」
そう言ってころころ笑いながら僕の腕にしがみついた。ほのかにバラの香りが香り、僕は初めての経験のことに顔を赤くした。
シャロンは靴を鳴らしながら僕をいろいろなところに案内した。時々はテーブルの上から食べ物を取り上げ、僕に渡す。しかし、僕の頭はぼうっとしていてシャロンのさえずるような声も陽気な音楽も抜けていくようだった。
「クリストファー? 大丈夫かしら」
僕は弾かれたようにシャロンを見る。大人のように眉を寄せて、しかし口には笑みを浮かべ僕を見ている。それに比べて僕はすべてが空回りしてバカのようにぼうっとしている。
「…大丈夫です」
「それでね、あなたにはお父様に会って欲しいの。いいかしら?」
「…はい」
シャロンに手を引かれて僕はソファーに豪快に座っていた男の所へ行った。シャロンはたちまち僕の手を放し恰幅の良い男に抱きついた。
「お父様!」
「ああ、シャロン。どうしたのかね」
彼は地主という言葉がぴったりのように口ひげを生やして、商売用の笑みが常に染みついている顔をしていた。しかし、娘が抱きついてきたときには厳しい目元を緩ませた。手を引かれて立ち上がった彼は反動で僕を見下ろした。
「ん、あ。何か用かね」
ジロッと彼が僕を見た時、シャロンは気まぐれな風のように間に入り込んだ。
「こちらがクリストファーよ。お父様に紹介しようと思って」
僕は慌てて頭を下げた。
「あの、よ、よろしくお願いします」
彼はちらっとシャロンを横目に見た。
「ボーイフレンドかね?」
「まあ、お父様ったら」
シャロンは頬を赤くして父の腕を叩いた。恥じらいと期待が混じった乙女の顔だ。それで彼女は父の影から見るように僕を見ている。
僕は愕然とした。シャロンが僕にぼんやりと抱いているものが何だとは薄々は感じていたが、表面では否定していた。彼女が僕を気にかけてくる理由、貧しい母子を助けるためだと思っていた。けれど現実はそんなにうまくはいかない。彼女は僕に恋人になるという条件で食事に招いたり、服を提供したりしたのだ。
ロブ・ゴードンは僕を見定めるように見た。
「ええっと、君はどこの出身なのかね?」
「ロンドンの近くの小さな都市です」
「家族はどうしているのか」
「ここで、母が働いています」
彼女の父が知りたいのはそれだ。娘の相手が家にとってつり合うのかどうか。彼の視線が険しくなった。
「君は将来何になりたいのかね?」
「…詩人です」
その瞬間、彼のため息が聞こえたような気がした。そんな父親の様子はつゆ知らず、シャロンはあどけない口調で言う。
「彼はここで働いていて、非常に優秀だって。詩だってまだ聞いたことないけれど、素晴らしいに違いないわ。ねえ、クリストファー。今日こそ何か私とお父様に一つ聞かせてもらえないかしら」
明るく言う彼女を彼はやんわりと押しとどめるように言う。
「ちょっと、ごめんだがシャロン。もう寝る時間だよ。部屋に戻りなさい」
「けれど、お父様…」
「明日は学校に行く日だよ」
シャロンは唇を尖らせた。
「学校なんか行きたくないわ。それよりも私はお買い物をしたい」
「立派なレディーになるためには買い物の他にも勉強が大切なんだよ」
そう言って、彼はうまく彼女を説得する。口では文句を言いながら、結局シャロンは僕の手をギュッと握っていて、父親の口車にのせられて踊るような足取りで去っていった。
後には僕と主人のロブ・ゴードンが残される。部屋の中ではだいぶ人は少なくなり、パーティーがお開きになってきた。客が帰り始める頃だ。そんな中、恰幅の良い亭主は僕にも良く聞こえる大きなため息をついた。
「君も分かっているだろうが、シャロンはまだ幼い。自分の気持ちにまだ整理がついていないんだ。だから適切な判断が出来ない…」
僕は頷いた。何が言いたいのかも知っている。
「私が遠くに行ってきたのは貿易だけではないんだ。娘の将来のパートナーを見つけにも行ったのだ。私にはあの娘の他に二人の息子を持っていて、あの娘の結婚が私のビジネスを左右するわけでもないが、彼女にはきちんとした元に嫁がせることが一番だ。この意味が分かるかね?」
「…はい」
「そこでだ。君は彼女のことを本当に好きなのかね。私が見たようでは一目惚れをしたのは娘の方だと思うのだが」
僕はうつむいた。身分の違いによって敬遠される恋。僕はシャロンの笑顔を一瞬だけ思い浮かべた。暖かい部屋にいるはずなのに冷たい水をかぶせられたように寒い。周りの視線が集まり始め、僕をえぐるように刺す。陽気な音楽ももう聞こえない。ただ今は早く帰りたいだけだ。
「君があの娘の近くにいてはあの娘は迷ってしまう。私にとって幸運なことに君はそんなに彼女を気に
かけていないらしい。そこで君の方から身を引いて欲しい。とは言っても一番の問題はあの娘のことだが。仕事はなるべくシャロンの目の触れないところへ移そう。シャロンにはこれから一切会わないで欲しい。そうしてくれると私にとって、そしてこのゴードン家にとっては非常にうれしい」
僕はおそるおそる顔を上げて主人を見た。一応、笑みの浮かぶ顔は真剣だ。僕は荒い波で削られた心を気にしながらも頷いた。
「…分かりました。忠告に従います」
彼は満足げに頷いた。
「君は母と一緒にここに出稼ぎにやってきたと言ったな。もしよかったら、期日よりも早くここを出ても良い。もちろん払うべき物は払う。すべては君次第だ」
その夜、とぼとぼと小屋に帰ったとき、母はいなかった。布の切れ端に、つたない文字で『出かけます、心配しないで』と書かれてあった。寂しい心の内を誰にも相談できずに僕はベッドに潜り込んだ。ここに来てからずっと緊張してこんな様子だ。ゴードンさんの言葉に甘えて早く帰った方がいいのかもしれない。