75、隠された過去
次の朝、部屋の外を歩くと、人一人見あたらなかった。本当に里を放棄するという実感が湧いてくる。それでも時間通りにエルフはやってきて、エレヴェンダー王の元へと案内してくれた。
王が佇んでいたのは城の裏庭であった。そこはエルフ達によって綺麗に整えられていた庭はなく、斜面にポッカリと空いた洞窟が恐ろしげに存在していた。その洞窟の中にエルフ達は順序よく吸い込まれていく。これが大昔にエルフ達が地下からやってきた地下との道というものだろう。洞窟は松明にも負けないエルフの光源が行く道を明るく照らしていたが、立ち去る者は皆、この地上の楽園を名残惜しげに振り返った。しかし列は乱れることはなかった。
僕は高台に立ち、エルフの民を見ていたエレヴェンダー王に近づいた。
「来たか」
「はい」
王は感慨深げにエルフ達を見ていたが、やがて裾を翻した。
「こちらへ。見せたいものがある」
やってきたのは洞窟の近くであった。目の前には斜面に作られた扉があった。きっと、土をくりぬいた部屋があるのだろうと思う。
不思議なことにその扉にはエルフらしき技巧が感じられなかった。美しいものを好むエルフは身の回り、すべての物に美しさを求める。例え、質素な衣服だろうと実はエルフの情感が織り込められていたりする。それは一見には分からずとも、目をつぶり触れればわかるものだった。見た目だけに美を求めない彼らであったが、その扉からは何も感じられなかった。
扉を開け、埃を被った屋内も同様に違和感があった。縦に広い部屋には多くの図書が存在していた。すべてが直線的なそこは人の情が入り込むことを拒むように作られている。灰色に統一された部屋は切迫した雰囲気すら感じられた。書物を読むことができるように机や椅子も一応置かれていたが、決して集中できないだろう。
一瞬入るのをためらった僕に気づいたのか、そうでないのかエレヴェンダー王は言った。
「ここの存在を知る者はエルフでも一握りしかない。ひどく昔、エルフが地上へやってきたときから存在したものだからな」
「ここは、エルフが作った部屋なのですか?」
その言葉にエレヴェンダー王は少し思案した。
「そうだな、エルフではない。けれども先祖が残した遺産とでも言うべきか」
意味深な言葉である。窓もなく埃っぽい部屋は薄暗かったはずだが僕らが中に入った途端、松明が灯る。王はその松明に手を触れること無かったが、部屋は一気に明るくなった。
「これは、エルフの魔法か何かですか?」
「魔法?」
僕は明るく周りを照らす松明を指さした。こうしてみると、松明とも蝋燭ともやや違うもののようだ。見れば見るほど不思議なものである。エルフは魔法を使い、人を惑わすと言う。これもそのたぐいと思いきや、エレヴェンダー王はあっさりと答えた。
「エルフは魔法を使えない」
「え?」
「クリストファー、魔法なんてこの世に存在しないのだよ。その明かりも魔法でも何でもない。何らかの機器によっての結果だろう」
僕はまじまじとその松明を見た。おそるおそる手を近づけると、熱くもなかった。
「面白いですね。魔法ではないならどうやっているのだろう」
「不思議かね?」
「ええ。これはどのようにして光っているのですか?」
振り返った僕に王は首を振った。
「私には分からないし、それを知る必要もない」
「それはどうしてです? もしも、この仕組みを知ることができたなら、生活はもっと豊かになるとは思いませんか?」
「それはどうだろうか」
エレヴェンダー王は机の上に一冊の方を載せた。その本は驚くことに紙ではない固い材質で作られていた。本には揺るぎない活字が無限に並んでいた。誰が書いたのだろうと思うほどすべての文字には個性が感じられなかった。
「これはエルフの歴史書だ。歴史書といってもこれは一般に図書館に展示されているものではない。エルフの記録に残されているものよりもっと古い時代の頃。言えばエルフが地下にいる時よりももっと昔の話だ」
エルフの言う昔? そうであったら、人間はまだエデンの園に住んでいたに違いない。エレヴェンダー王はその書物を開く。だが、驚くことにその歴史書は全く老化を感じられなかった。
「エルフの起源は地下だとされていたが、本当はそのまた昔では地上で生活していたのだ。いや、エルフの先祖といった方がいいかな。そしてその頃の先祖は全く今のエルフとは異なっていた」
エレヴェンダー王はあるページを見開き、僕に示した。そこには男女と思われるエルフが精巧に描かれていた。しかし、今のエルフとは若干違う。描かれたエルフ達はどちらかというと人間に似ていて不格好で、そこまで美しくない。
「寿命も長くはなかった。そして人間と同じように伴侶ができなくても成長し、そして死ぬ運命に彼らも生きていた」
そして、ぱたんとページを閉じる。歳月を知らせるかのような埃が立ち上る。
「我々の先祖は人間と変わらないものだった。けれども、一つだけ違うことがあったんだ。それが何か分かるか?」
僕は首を横に振った。王が何を言っているのか分からない。渋面を作った僕に王は構わず言った。
「…ところでクリストファー、君はエルフがどうして森を大切にしているのか不思議に思ったことはないか?」
「自分たちの住む場所を大切にするのは動物皆同じです」
「それはそうだ。しかし、別に森ではなくてもエルフは人間と同じよう生きていける。その昔、森の外に出ていった先祖達もこの森のことを忘れやしなかった。私たちはこの森に固執する。他の生物との調和を乱すことなく。もしもほんの少しでも乱すものがいれば、エルフは仲間であろうと制裁を加える。エルフは穏やかだが、森のことになるとそれは変わる。時には家族であった伴侶も刑に服しなければならない」
「伴侶までですか?」
「森を冒してはならないということはもはやエルフの本能に達している」
僕は首を振った。伴侶を大切に思う心は知っている。自分が罪を被るよりも辛い。確かに森を守ることは大切だ。けれども、そこまでくると異常である。
「それは厳しすぎる」
「そうだ。そなたの言うとおりだ。けれども、この教訓は先祖が定め、ずっと我々の心に刻まれたものだ。ここで、先ほどの話に戻ろう。我々の先祖と人間が異なっていた点、それは我々の先祖が賢かったということだ」
僕は思わず鼻で笑ってしまった。
「賢かった? 本当に賢明ならば、自分の仲間を森のために犠牲にしようとは思わないでしょう。どうしてそこまで?」
「賢さと賢明は違う。先祖は賢かったが賢明ではなかった。先祖は様々な知識を持っていたがそれをうまく使うだけの知恵は持っていなかった。例えれば、剣を持った赤ん坊というところか。赤子は火傷して初めて自分の過ちに気が付く。…先祖は昔、森を、そして地上を破壊した歴史を持っているのだよ」




