74、灰色の道
僕は彼が何を言ったか理解できなかった。エルフ達が森を手放す? エルフは戦えばきっと勝つだろう。人間よりもすべての面において優れた種族が、どうして?
「エレヴェンダー王、どういう意味ですか? 森を手放すとは…?」
「犠牲が生まれることはならぬ」
「そんな! 確かに犠牲を払わないに越したことはありません。しかし、ここで犠牲を恐れて守るべきものを守らなければ将来大きな災害を生むでしょう。今はその時です。ここで人間の横暴を負かさなければ!」
思わず声を荒挙げると、王は代わりに僕を見た。
「クリストファー、エルフの中での犠牲はその個人だけの犠牲ではない。その伴侶にだって及ぶのだよ。そなただって、もしも君がシャインの伴侶なら分かるであろう。伴侶無しでは残りの人生は生きていけない。もしも数十のエルフが死んだならば、その倍のエルフが生きる糧をなくすのだ」
はっとして、王を見る。王は眉間に深い皺を刻ませていた。
「我々は現在を生きなければ将来はないのだ」
深い穴が露わになる。
「エルフはもともと子が少ない。争いなどで人数が欠けてしまえば、子は産まれず、エルフは滅亡する。伴侶が見つからなければ成長しないという特徴もそれを助長している。確かに人間にとって見れば、互いに一生愛し合うことができる伴侶が見つかるまで永遠に成長しないというエルフの特性は羨望の対照であろう。しかし、種の存続とみれば…絶対的な愛は呪いなのだ」
エルフは滅び行く種族なのだと。
昔、シャインに言われた言葉を思い出す。エルフの王は大理石の手すりをなぞった。その手すりにも細かい彫刻が施され美しかったが、彼はそれに爪を立てた。しかし、僕には完全に納得がいかなかった。
「…シャインは昔、エルフは滅び行く種族だといいました。けれども僕はそうは思いません。愛が呪いとはどういう意味ですか? それがどうして悪いのですか? 人より賢く、幸福な種族が死にゆくとは」
「何を根拠にそれをいうのかね?」
「エルフは昔から生きてきたから…」
王はただ笑っただけであった。その笑いは僕を通り越して虚空に向けた笑いのように思えた。
「さあ、どうだろうか。生きているものは皆死ぬ」
王はエルフ達に背を向け更に歩く。
「こうして、この森の攻撃にあったのは一度ではない。祖先が地下から出てきてこの森に住み着き、何百年も昔から、私たちは人間以外にも様々なものと戦ってきた。エルフは一時期森の外まで都市を作るまで繁栄したが、種としての生命力は持ってなかった。少しの環境の変化によって人口は激減した。私や多くの研究者たちは考えてきた。どうして、エルフに生命力が無いのだろうか、どうしたらそれを持ちエルフを繁栄させられるのかと。そして、それの一番の解決策は『変化』なのだとたどり着いた」
僕はただ頷いた。
「クリストファー、私の言っていることが分かるかね?」
「…すべては分からないですが」
僕は気まずげに言った。
「よい。ただ聞いて欲しいのだ。一つの変化でもエルフの生態を変えることが出来る。なぜそうなるかは言わないでおこう。そうだな、変化とは何かと言われれば、非常に曖昧なもので具体的には表すことが出来ない。あらゆるものが変化になりうる。ただ言えることは集団の中で異分子と呼ばれるものが始まりであることだ。そこで私たちが目を付けたのはシャインだった」
突然、彼女の名前が出たことで僕ははっと、彼を見た。
「彼女は四百年も伴侶を見つけることが出来なかった特異な存在だ。この数字もエルフの中でも異例な年齢だ。文献を見る限り、そんなに長く生きた者は見たことがない。私は思った。彼女こそが老いたエルフ族を進化へと導く。彼女とその伴侶こそがエルフにもたらされる『変化』になり得るだろうと」
そして、と彼は続ける。
「そうは言っても、それがあったとしてもどうエルフに影響を与えるか分からないし、変化云々は実際、私の直感に過ぎなかった。正直、こんなにもこの命題が難しいものだとは思わなかった」
「…変化は進化なんですか?」
「イコールで結ばれるわけではない。変化の一つが進化なのだ。様々な変化の中、もっとも環境に適応したものが進化といわれる。…そして私の目の前には彼女の伴侶と思われる人間が立っている。私たちを森から追い出そうとした種族の男が」
僕は言葉に困った。
「僕にはどうしようもありません。僕だって、人間に生まれてこなければよかったと思っている」
「いいや、貶しているわけではない。ただ予想もしていなかったことなのだ。いや、予想も付かないことが変化なのだろう」
灰色の風が吹く。空は曇っていて、もうすぐしたら雪は大粒へと変わるだろう。
「そなたがエルフにとっての救世主なのかどうかは分からない。そなたが将来エルフにどう影響を与えるかも分からない。シャインが希望だと見たこともただの憶測に過ぎなかったから」
エレヴェンダー王は多くのエルフ達を見下ろした。
「明日、私たちは森から出ていき、私たちの祖先が生まれてきた地下へ帰る。そこならば、人の手も届かないだろう。そこで私たちは己の身の呪いを嘆き、小さな奇蹟を信じるとしよう。そなたも明日には仲間達の元へ帰れるだろう。彼女にも挨拶をお願いしよう。さあ、私は準備が残っている。今日はここへ泊まってくれ。ただ、明日の朝また私を訪ねておくれ」
僕はエルフに案内され、冷たい廊下を歩く。何人ものエルフとすれ違った。いつもは時間を惜しむことなくゆったりと歩くエルフであったがこの時には、礼儀を気にする者もいない。多くのエルフが初めての混乱に当惑していた。腕に抱かれた赤ん坊が空気に漂う不安を敏感に感じ取り、大きな声で泣きだした。それでも赤ん坊を泣きやませることができるエルフは誰もいなかった。
奥まった部屋へ案内されたが、夜通しエルフの声は聞こえてきた。何かとても急ぐ声、泣き出す声、嘆く声。言葉の意味は分からなかったがこういうものは分かるものだ。僕は逃げることも出来ず、それらをただ聞くしかなかった。




