71、エルフ
「ん…」
凍えるような空気の中、僕は目覚めた。寝たのは数時間らしい。窓から差し込む光は赤く変わっていた。変な姿勢で寝てしまったせいか身体は強ばり、だるい。しょぼしょぼとする目をこすって体を起こそうとした時、僕の首筋に冷たい物に当たる。
「動くな」
鈴のようによく通る、知らない声が塔に反響した。僕の首筋には朱色の光を弾く細い剣先が添えられていた。冷水をかけられたように一気に目が覚める。
「…誰です?」
剣を添えた者は動かなかった。しかし、もう一人いたようだ。体重を感じさせない足音でその人物は僕の目の前に立つ。大理石を彫ったような端正な顔立ち。知恵を宿した大きな瞳。質素だが利便性を追求した服。まだ年齢は幼く、性別が分からない姿や鋭く伸びた耳を見れば間違いはなかった。
「…何のようですか?」
エルフはぴくりと鋭い眉を上げた。
「…おまえは私がただの人に見えるというのか?」
「いいえ。エルフに見えます」
僕がエルフを見ても驚かないことに逆に驚いたのだろう。不審そうに首を傾げ、僕を見据えた。
「我々の事を知っているのか?」
と、僕に刃を当てていたもう一人が言った。
「…ベルターン、私はこのものを以前に見たことがある。復活祭の騒ぎに紛れてシャイン様を誘拐しようとした者だ」
「なんと!」
目の前に立つエルフの瞳孔がカッと大きく開かれ、僕を貫いた。まるで視線だけで僕を射殺す勢いだ。それを向けられ、本能的に危険を感じないわけがなく、思わず身がすくませた。エルフの歪んだ唇から出てきたのは背筋を凍らせるような声だ。
「愚かな人間よ、浅ましく我らの森に入り込む前にも、そのような過ちを犯してまだ生きていたのか」
ぐっと首にナイフが食い込み、鋭い痛みが走り僕は叫んだ。
「僕はシャインを誘拐しようとしてなんかしていない! 何百年経っても伴侶が現れないことに絶望して彼女は彼女自身の意思でエルフの里から飛び出したんだ。僕は彼女の側にいたくて一緒に抜け出したまでだ」
刃の感触が弱まる。僕を顔に影を落とし無表情に戻ったエルフが口を開いた。
「…人よ、おまえは我々についてどこまで知っているのか?」
僕は口をつぐむ。しばらく沈黙が流れた。
「まあ、いい。詳細は里に戻ってから聞くとしよう。我々のことを知っている者をこれ以上野放しにも出来ない。アルビー、この者の手を」
と、手首が後ろに回され、確実な手つきで縛られる。
「ど、どういうことだ? あなたたちは何をしたいんだ?」
「おまえ達人間は我々の森に勝手に入り込んだ。我々は森を守るため人と戦う」
「違う! 僕はちゃんとシャインの許可を得た!」
「まだ、シャイン様と会っていたのか!」
大きな音を立て、頬を殴られた。あまりの力に口の中に血の味が広がった。
「我々はそんな許可など認めない。おまえがシャイン様を誑かせて執り行ったのだろう」
「違う、違う…」
このまま連れて行かれたらヘンリーを邪魔する者がいなくなる。さきほど鬱々と悩んでいたことが、ばかばかしく思えてきた。あんなことを考えている間にヘンリーを殴って計画を破談させればよかったんだ。呻いた僕は腹に更なる鈍痛を受けた。薄れかかる意識の中、エルフの声が響く。
「いっそのこと殺してやりたいのは山々だが、おまえを里で調べなくてはいけない…」
ゆっくりと目を開けると、僕は薄暗く、じめじめとした場所に横たわっていた。死に神の吐息が行き渡り、ひどく寒い。この時の、風景と匂いには覚えがあった。この心を食う絶望感を知っていた。
(エルフの牢獄だ…)
僕はエルフに捕まってしまったのだ。
ハッとして、僕の自由を奪う鉄格子を掴んだ。こうしている間にヘンリーは事を押し進めているだろう。
「ここから出してくれ! 頼む!」
薄暗い闇の中、遠くにはぼんやりと門番のエルフの姿が見えた。
「森はこれから人に侵略される。人間の欲のために木は切られるんだ! 僕が行かなければ完全に森は死んでしまう!」
エルフの無表情の顔がこちらを見る。僕は焦る気持ちを抑え、エルフが理解できるようゆっくりと言う。
「僕は近くの民家に住んでいる者で。この山に埋まっている石炭を取って売っているものだ。多くの人を組織して大量に石炭を掘って、金をもうけようと考えていた。けれども、それは間違いだと分かったんだ。金をもうけても森が無くては、幸せは手に入らないと分かった。僕は味方だ。僕はその人間の間違いを正す力がある。だから、僕にもう一度チャンスをくれ!」
話を無言で聞いていたエルフは土下座した僕を見下ろした。
「…おまえは我々がいいというまでそこで待て」
エルフは何でもなかったように優雅に歩き去っていった。話が伝わらなかったことに絶望し、鉄格子に掴みかかった。
「そうこうしている内に、人間は攻めてくる! 確かに人はエルフと比べ身体的にも知能的にも劣っているかもしれない。けれど、人は数が多いという強みがある! 相手は森を得るために多くの人と金をつぎ込みます!」
足音は次第に遠のいていく。
僕はしばらく焦り、鉄格子をゆらしていたが、はたと気が付き、笑ってしまった。
エルフは人より強い。きっと、エルフは別に人の助けを得なくても人間なんかに勝てるのだろう。僕が勝手に大騒ぎしているだけなのだ。
愚かなクリストファー。おまえはただの人質としての価値なのだ。
無性に泣けてきた。
種を越えて逃げようとするたびに僕たちは捕まる。神のような大きな存在が僕たちの存在を許しはしないと言う。ただ、普通の幸せを望んでいるだけなのに人間とエルフという種族の違いが僕らを無理矢理引き離そうとする。
何をする気にもなれず、ただ独房の中で冷たい壁により掛かった。傷が地面の水に触れ、しくしくと染みる。このまま、エルフが人に勝てば、僕も役立たずとなってこのまま日の目を見ることなく死ぬのだろう。
けれども最後に…
「クリストファー!」
鬱々と汚泥の中に取り込まれそうになっている僕の中で、水晶のような声が響いた。




