70、塔の中
冷たい空気で心まで凍てつく。ヘンリーが僕の父親? 僕は現実から逃げたくて地をかける。
今し方明らかにされた真実は考えてみれば否定は出来ない。無口なところ、経営者としての思考。僕は母似だとずっと思っていたが、確実に父の血も引いていた。
更にある考えまでも思いつく。まるで悪魔のような考えだ。
もしも、僕が彼と似た環境に生まれたならば、彼と同じように行動するのではないか? もしも彼女を知らずにいれば、あの深い叡智に満ちた森を、生物を、そしてエルフを利益のためと割り切り、切り捨てるのではないか?
否定は出来ない。理論を組み立て、常に冷静に状況を判断する経営者として必要不可欠な考え方がそう告げる。それは今の状況を論理的に判断し、ヘンリーが下した決断の方が正しいと言うのだ。
「確かにヘンリーの下した判断は非道と言えるだろう。けれども、もしもおまえに彼女という存在がなかったならば? 彼女の庇護がなかったならば? 森やエルフが敵だったならば? おまえはおめおめと敵に殺されるのを待ったのか?」
結局の所、僕は聖人でもなんでもない。右の頬をぶたれて左を差し出すようなことはしないのだ。
僕は人間で彼女はエルフ。どうしても超えられない壁が存在する。
僕は息が切れよろよろと干上がった小麦畑の中を歩いた。先ほどまでは明るく日が照っていたが、既に薄暗くなっていた。すっかり冬支度を終えた畑は寒々しい。視界に塔の姿が入った。僕と彼女が初めて出会った場所だ。一年の間に移ろいゆく麦畑の中、変わらずそびえ立つあの塔だけが唯一の真理だと思った。
僕は一人きりになりたくて塔に閉じこもった。螺旋階段を登り、火もない冷たい暖炉の前でうずくまる。今頃は結婚式の準備も終わっているだろう。彼女を迎えに行かなくてはいけなかった。けれどもこんな気持ちで彼女に会いたくなかった。
空腹を忘れ、身体が寒さに震え始めても僕は暖炉の前から動かなかった。身体を絶望が食い荒らし、澱が身体を淀ませていた。
「僕はなぜ生まれてきたんだ?」
「なぜ僕が彼女の伴侶なんだ?」
答えのない質問が僕の中で繰り返される。
自分の存在があまりにも頼りないため、空気を吸うことさえ難しく感じられる。
――ゆっくり息を吸って
けれども不思議なことにそうしていることに次第に心が安らかになる感情が流れてきた。いいや、安心感でない。それは人間の持つ具体的な感情ではなかった。それはまるで本当の熱源のような温もりだ。冷たいはずの塔の中なのに温かな手で抱きしめられるような感触を味わっている。不思議な力は汚い泥で出来ているはずの僕を抱きかかえる。
――私が見守っている
巨大な意識が僕の心をこする。僕は自分がどうしてこんな感覚を感じているのか分からず、思わず塔の天井に注意を逸らせた。しかし、そこは万年払われることのない蜘蛛の巣しかなかった。
しかし、そこまでだった。強ばった身体は思っていた以上に疲労していたのだ。意識が緩んだ瞬間を最後に次第に力が抜けていきまどろんでいく。意識の最後に感じたのは予想もしていなかった柔らかな感情であった。




