68、衝撃
「ごめんなさい、クリストファー。忙しいとは思ったのだけれど」
と、母は僕の隣に立つヘンリーを見つけ顔を強ばらせた。けれども、すぐに動揺は仮面のような顔の下に押し隠される。
「すみません、お話の邪魔をしました」
「いえいえ、ワイズさん。それには及びません。話は終わっていますから」
ヘンリーはさっと、僕の横を通り過ぎ部屋から出ていこうとした。その時、小さく母が呟く。
「…もう、ワイズではありません」
男は立ち止まり、そして肩をすくめた。
「それは失礼しました。時が経てば人は変わってしまうのに」
「ウィンスレットさん、あなたは二十年近く経ちますが最後にあったときとあまりお変わりになりませんね」
「…ええ、おかげさまで」
どういうことだ? どうして、母は彼を知っている? すでに白い仮面は割れ、母の顔は険しさを増していた。ヘンリーは何度目になるか分からないため息を付いた。
「…レイチェル、君は昔から思いこみが激しかった。私は付き合う前から結婚は出来ないと言っていたはずだ。しかし、君は捨てられた子犬のような顔をして私に付いてきたんだ。感謝される必要はあっても、約束を反故した事と責められる理由なんてない」
「いいえ、あなたはそうは言わなかった。ただ、将来も有望な男を盲信的に慕っていた十五の女をもて遊んだだけだったのよ」
僕はハッとして二人を見た。ヘンリーは初めて顔を苦々しく歪めた。初めて普通の人間らしい感情を見たようだった。
「…口の利き方には気を付けてくれ」
「ええ、あなたは昔からそういう人だった。体面ばかり考えて」
「噂ほどこの世界で怖いものはないからね。――どうやら、ここには私の敵しかいないみたいだ。さっさと、退散するとしよう。レイチェル、君だって私の顔を見に来たわけじゃないだろう」
「当たり前のことを言わないでちょうだい」
彼は少しだけ母を睨め付け肩さえも触れ合わないように部屋から出ていこうとした。
「…君も人のことを言えない。私と別れた後もすぐにまんまと他の男と結婚したんだろう。君は昔からもてたからね。その子だっているじゃないか」
そう言って僕をしゃくった。その時、必死に押しとどめていた母の怒りが爆発した。
「クリストファーはあなたの子よ!」
「私の子…?」
ヘンリー・ウィンスレットが僕の本当の父親?
ぽかんと口を開けたヘンリーに劣らず、僕は雷が落ちたような衝撃を受けた。
物心付いたときからずっと、僕の本当の父親は誰なのだろうと思っていたし、つい先ほどまで彼には父親みたいな感情を抱いていた。けれどもいざ、こうして知ると、どうしていいか分からない。
「あなたは二十年前、私にこの子だけを残して失踪した。私がどれだけ苦しんだか分かる? 十五の未婚の女が父なし子を抱えて生きるというのがどんなに難しいか! いいえ、分かるはずがないわ」
「母さん…」
きっと、振り返った母は少しだけ表情を柔らかくした。ずっと変わらない温かさで僕を抱きしめた。
「クリストファー、私はあなたがちゃんと愛した一人の人と結婚することを誇りに思うわ。あなたがこの道に進むと言ってからの心配事だったもの」
「レイチェル」
少し冷静さを取り戻したヘンリーは言った。
「私が知らなかったとはいえ君にかけた苦労は多大なものだ。クリストファー、君にしても。なんなりと補償はしよう」
しかし、母は冷たい目で男を見ただけだった。
「私はあなたがいなくても生きていけたわ。今は優しい夫とクリストファー、そして娘もいる。そしてこれからもそうするつもり。あなたからは何も受け取らない。もう私たちに関わらないで」
ヘンリーはちらりと僕を見た。僕は初対面の時ように自分の父親を見返した。
「クリストファー…」
しかし、僕は何も言わなかった。気まずい沈黙だけが流れる。三人ともあえてそれを破ろうとしなかった。突っついただけで破裂しそうな沈黙。
しばらくしてヘンリーは息を吐いていつもと変わらない口調で言った。
「君たちがそれを望むなら私は言うとおりにしよう。例え血の繋がりがあるとはいえ、私たちは他人だ」
僕はもう彼を見ていれられなかった。彼とは同じ部屋にだっていたくない。
「クリストファー!」
僕は立ちつくす二人の隣を通り抜け飛び出した。




