63、視察
ただ一人高く建てられた物見台でゆっくりと煙草をふかしている男に声をかける。
「おーい、新しい主人がやってきたんだ。現場を見させてもらうよ!」
地上を見た男はその声が誰かを知り、腰を抜かしたように梯子を降りてきた。
「こりゃあ、ワイズ様。出迎えも出来ずに申し訳ありません!」
「いいんだ。予定で定められていたことじゃないし」
頭を下げる男にヘンリーは馬上から呼びかける。
「君がこちらの現場監督かい?」
「へ、へえ」
「今度、ワイズ殿の後任に付くことになったヘンリー・ウィンスレットだ。どうぞよろしく」
案内を申し出る男をやんわり断り、僕たちは馬を進める。むき出しの地肌にポッカリと空いた穴はすぐに見つかる。この穴の先には宝である石炭が埋まっているはずであった。僕は横たわる工具などを指さして知っている知識のすべてを彼に伝えようとした。けれどもその声も目の前に存在している大きな穴に吸い込まれていくようだ。
「これ以上馬で近づいたら危ないので引き返しましょうか。他に見たいところがあれば案内いたしますよ」
「いいや、大丈夫だ。今日はこれぐらいにしよう」
馬の首を返した僕にヘンリーは何気なく尋ねた。
「クリストファー、君はどうして仕事を辞めようと思ったんだい?」
僕はハッと男を見た。彼は肩をすくめる。
「人に言えない理由があるならば、無理には聞かないが。けれども、私には君のような有能な人間がここから手を引くなんて惜しいと思ったんだよ。おかげで、私がここに来られたのだけれども」
「決して人に言えない理由じゃないんです。…僕は結婚するんです」
ヘンリーはぱあっと顔を明るくして見せた。
「それはおめでとう! それでも結婚してでも事業には全く支障は無いじゃないか。君の心を射止めた幸運な娘さんを養わないといけないならなおさらだ。豊かに暮らしていくためにはお金が必要だろう?」
「そうじゃないんです。彼女は豊かな暮らしを望んでいるわけじゃないし、僕だってもうこの世界にいる興味を失ってしまったので。畑でも耕してこれからを暮らしていこうかなと思っているところです」
それはまさに理想である。ただ自然の恩恵だけを糧に彼女と共に生きていく。けれどもそれは世の常識から全く外れていることには変わりなかった。案の定、ヘンリーは呆れたような顔をした。
「…君は本当に変わっている。この世界のどこに、好きこのんで畑を耕そうとする人がいるんだ? 君に惚れたその娘さんもまた奇特な方だ」
「やっぱり変でしょうか?」
思わず心配になった僕に彼は取り繕うように言った。
「いやいや、私ごときが言える事じゃあない。人はそれぞれにあった暮らしをするべきだよ。君がそれが一番の道だと思えるのならそうなのだろう。将来何があるか分からないさ。豊かな暮らしより愛のほうが大切だと思えるときも来るかも知れない」
「ヘンリー殿はご結婚を?」
僕は尋ねた。
「いいや」
彼は一息ついて、言う。
「私の場合は愛で自分の人生を豊かに過ごすより、自分の実力で渡っていきたいと思っていてね。何人か付き合ったこともあるし、結婚まで考えたけれどそれが私の性格に合っているんだと昔に気づいたのさ」
人には人の生き方がある。彼の言い分が理解できないことはないが僕は彼女が必要だった。こうしているうちにも胸の鳥は彼女を欲して鳴いている。この数日の間、ぐっと抑えていた感情がわき上がってくる。こうしてのろのろと馬を歩ませている間にも彼女との時間は減っていく。そんな僕の焦りを見抜いたのか、ヘンリーはくすりと笑った。
「もしかして恋人との約束の時間があるのかな? …私のことは構わないよ。道は覚えているし。行っておいで」
「そんな…」
「ここは経営者としての義務を持たなくてもいい。君は今日、十分私を案内してくれた。もう今日の仕事は終わりだよ」
そのすべてを見守るような言い方にまるで兄や父のような包容力さえ感じる。僕は感謝しながら馬を急かし、道を駆けた。




