62、ヘンリー・ウィンスレット
僕たちは早速、話題は事業のことに移った。まだ石炭の発掘作業は小規模であり、大した量は出荷していない。そして新たな調査によるとこの山に埋まる石炭の埋蔵量は大した量はないと。けれども今は供給が多くあり、高値で取り引きされるため、ここでもうけた金を足がかりに新たな事業を考えていると。
ヘンリー・ウィンスレット自身はあまり多くは喋らなかったが、時折出される質問は要領がよかった。
三人で風通しの良いテラスに据わり、ティーを飲む。興奮気味に喋るルパードと隣で付け加えるように喋る僕を男は落ち着いた目で見る。抑制が利いているけれど、相手を不愉快にさせない熱気ももつ。それを見て、彼は経営者として有能であることを思わせた。
すっかりお昼もまわり、僕たちはテラスでそのまま食事をとることにした。ライ麦パンの中にベーコンを挟んだ物で決して豪華ではないが、ヘンリーはそれをうまそうに食べた。
「このパンの麦はここで取れたものかい?」
「え、はい。そうですけれど」
おもむろに尋ねられてルパードは頷く。
「おいしいものだね。それにこのパンはライ麦の味がしっかり味わえる。これならばベーコンが無くてもいけるぐらいだよ」
そう言って笑った姿に、思わず好感を覚えた。以前のスタンリー・ティグニーであったら逆に顔をしかめる味であったが。丁寧にパンくずを払い、輝く髪を風にゆらせて長い足を組んだ男は眩しげに外を見た。
畑では総出で麦刈りが行われていた。
「さて、人心地ついたところだしね。私としてもせっかくこんな自然豊かなところに来たのだから話だけで一日を過ごすつもりはない。どうだろう、現場にでも案内してくれないか?」
ルパードはやるべき事があるということで、僕が彼に付いていくことになった。馬を用意してもらい、母屋の前に牽いてくると、ヘンリーは確かな動作で馬に乗った。
柔らかい日差しの中、馬を進めさせると様々な匂いが味わえる。刈り取った麦や、野焼き、家畜の排泄物の匂いでさえもここの暮らしを構成する重要なものだ。すでに麦は熟れきっている。石炭掘りでさえも中止させた。本来の仕事に汗を拭いながらも、麦の刈りいれに精を出している人々を見ながら、ゆっくりと馬の振動に身を預ける。
「やはり、こんな景色は心が落ち着くな」
隣でぽつりと漏らしたところを向くと、男は穏やかな顔で麦畑を見つめていた。その瞳はやはり優しげであった。その高貴さが田舎の風景とミスマッチと思いきや、意外と馴染んでいた。
「そうですね」
「君たちはこんな風景を毎日見ているのか。最近、ロンドンは賑やかになってきて。それはそれで興味深いのだが田舎出身の私にはここの風景が合っているな」
僕はただ頷いた。その時、ヘンリーは小さく笑った。
「君は本当に無口なんだね」
「え?」
振り向くと、彼は唇にわずかに笑みを浮かばせていた。
「たしか、下の名前はクリストファーだったよね。クリストファー・ワイズ。ワイズという名字はあまり聞かないな」
「母の名字なんです。それに母のところは実業家でもなんでもないですから」
「おや、悪いところを聞いてしまったな」
「気にしないでください」
もう何度も言われてきたことだ。父がいないことは隠してもしょうがないし、無名であることもしかたがない。
「クリストファー、君は若い頃の私に似ている。私もそううまく喋れる方ではなかった」
「そうなのですか?」
彼は鷹揚に頷いた。ひんやりとした風が吹く。小さな子どもたちは仕事よりは遊びに夢中だ。棒きれを拾い、麦の刈られた場所で早速追いかけっこをしている。
「私が生まれたところもこんな畑ばかりの田舎だった。故郷は貧しい所で子どもたちも毎朝早くから畑に出されて働いていた。私も両親がいなかったから他の子どもたちと一緒に畑を耕していたよ。修道院長は怖い人でね、口答えをした者には容赦がなかったからあまり口を開かなかった」
こうして上品に馬にゆられている姿からは全くもって想像がつかなかった。彼が貴族のように何不自由なく育ったと思ったことに申し訳なくなった。
「すみません…」
今度は彼が慌てたようだ。
「いやいや、そう言うつもりで言ったんじゃないよ」
それから僕たちは森を貫く細い道に入る。覆い被さるような木々は風に身体を揺すらせ、紅葉をふらせる。さやさやと枝をならし、敵意はないと森は言う。
僕たちはしばらく無言で整備とはほど遠い林道を進むのに熱中した。馬を並んで進めることが難しいため僕が前を歩くことになった。樹幹では冬に備えるリスや鳥たちが忙しなく行き交う。それらを物珍しそうに見ていたヘンリーは口を開いた。
「ここはずいぶんと動物も見られるね。道は起伏や石ころだらけで歩きにくいけれど。これじゃあ、石炭の運搬に苦労するんじゃないか?」
「そうですね。それが石炭の発掘が進まない原因でもあります」
「鉄道をひいてみることは考えてみたかい?」
僕は小さくため息を付いて、事情を説明する。鉄道をひくために割に合わない時間やコストがかかること。そして鉄道をひいても結局は、石炭は近い内に枯渇するし、何もないこの土地には宝の持ち腐れになってしまうこと。それらを注意深く男に伝える。後ろを歩く男は考え込んでいるようだ。僕は更に重ねる。
「それにこの森は、呪われているんです。ルパードから聞きましたか? この山に石炭の存在があることを知り、発掘に取りかかろうとした頃でした。現場に向かった何名もの作業員が獣たちの抵抗にあいました。それは何回にも及び、僕も傷を負いました。けれどもある時、この森に住む樵の親子に会い、彼らはこの森の主と面識があると言いました。そこで石炭の発掘の許可をお願いしたんです。幸いいくつかの条件で事業は再開できましたが。その条件の一つが森を必要以上に破壊しないと言うことなのです。…信じられないような話ですが」
「すると、この森の主というのは精霊といわれるものかい?」
「ええ、きっと」
馬の足音に混じってため息が聞こえた。
「全く信じられないような話だね。けれども、みんながそれを信じているみたいだし、それが真実なんだろう」
驚いたことに彼はすんなりと受け入れてくれた。僕はヘンリーにちゃんと向き直った。
「それでは、僕がこの仕事を辞めた後でも、鉄道をひくため森を破壊することがないようお願いします。彼らにはそう約束したので」
「まだ私もきちんとすべてを把握したわけじゃないから断定は出来ないけれど、君がそこまで言うならばその手段は最後にしておこう」
その時、馬はようやく泥によってかためられた木の床を踏んだ。森は開け、明るい日差しが目に染みた。炭坑場は開けたところにあり、地面には道具が散財していたが人はいなかった。ほとんどの者が麦刈りに言っているのだろう。




