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逃亡者たち  作者: モーフィー
第三章 Twilight
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61、新しい経営者


 お腹が空くと、夜食を取り、蝋燭が燃え尽きると、新たに灯をともす。それ以外の時間は物を書くのに当てる。僕は残っていた書類を気合いですべて処理し、思わず椅子にもたれかかった。達成感で、切り詰めていた心が和らいでくる。もう、ベッドに飛び込みたい気分であったが、最後に痺れる手で万年筆を握りしめた。


「次は、と」


 引き出しから白い便箋を取り出して、朦朧と仕掛けた頭で書き始めた。しかし先ほどまで事務仕事をしていたため、文体がどうしても硬くなってしまう。僕は書き上がった手紙を読み返し、笑った。


「これじゃあ、母さん絶対読んでくれないだろうな」


 きっと、何かの慈善活動の勧誘だと思って捨ててしまうだろう。学校に行っていない母が拙い声で手紙を読んでいたのが思い浮かぶ。というわけで、これはボツ。ぐしゃぐしゃにしてゴミ箱へ投げる。


 伝えたいのは結婚という、人生でもっとも大切で幸せなこと。それは堅苦しく他人行儀にではなく、正直な幸せを込めて報告するものなのだ。


 踊るような文字で文を締めくくり、鑞で封をする。時計を見れば、もう真夜中であった。二本目の蝋燭も今にも燃え尽きそうである。


 ふと、森の方向を見つめるとガラスに映る僕の髪は少年時代ここに初めて来たときと同じく、肩に付くほど長いことに気が付いた。青白い顔はどうにもならないけれど、結婚式までには髪を切ろう。そう僕は心に誓った。





 次の朝、僕はきっちりと服装を決め、ルパードの元へ向かう。その前に母宛の手紙を預けておく。吹き抜けの外を見ると、一面に生えた麦の穂は重く垂れている。僕らがここにやってきたのにまだ青々と茂っていたのに。もうすぐ刈り入れ時である。


「おう、やってきたな」


 これまたきっちりと着込んだルパードは腕を組んで母屋の入り口で背を柱にも垂れかけさせ待っていた。


「やあ、ルパード」

「ちょっとやつれているぞ。その顔がいつもより不細工だと言うことは、昨日の夜であんだけ積まれていた仕事は終わらせたのか?」

「上々だね。手のしびれはまだ続いているけれど」


 僕は利き手を晒して見せた。夏の終わりを知らせる、やや乾いた風を嗅ぐ。ルパードはため息を付いた。


「本当にこれでお別れって感じだな。おまえと俺の名コンビは。俺は結構いい線いっていると思っていたのにな。意外と早くに終わってしまったな。まったく、あんな美女と浮気しやがって。俺の方がそうしたかったよ」


 寂しさが拭えない声だが、彼は彼なりに僕の旅路を祝福してくれるのだ。


「楽しかったよ。おまえと仕事やっていて」


 それには応えず、ルパードはわざとらしく鼻をすすった。


「それはそうと、今日来る僕の後任者とはどんな人だい? 全部、おまえに任せて置いたからちっとも分からないんだ」

「…そうだな、彼とは飲み屋であったんだ。大陸では良く知られているらしい実業家だが、ここ、イングランドでも経営の足場を作りたいらしい。ヘンリー・ウィンスレットって知っているか?」


 僕は思案し、合点が言った。


「そりゃあ、彼は経営理論の世界ではとっても有名だよ。そこの世界では彼は天才とまで呼ばれていて、僕は彼のモデルに憧れて自分の研究を始めたぐらいだもの。そうだな、どちらかというと経営者としてはあまり聞かないが、研究者として名を馳せている。しかし、すごいな。よく、彼を捕まえることが出来たな」


 ルパードは肩をすくめる。


「そんなに有名なのか? 俺は全く聞いたことがなかった」

「彼なら僕がいなくても十分にやっていける。いいや、むしろ僕よりここを発展させられるに違いない」


 僕は熱く言った。しかし、ルパードは意外そうな顔をしていた。


「研究者ねえ。俺は顔からして彼は行政メインの奴かと思っていたが」

「どういうことだ? 顔で役割は決まらないだろう」

「いやいや、あの顔は受けがいいだろうからな。まあ、俺の隣にいる奴ももてる顔をしているのに意外と初だってことと同じだよ」

「は?」


 ルパードはニヤリと笑った。


「ヘンリー殿は若い頃は人も羨む美女だったらしいぞ」


 僕は意味が通じず、思わず黙り込んでしまった。


「…彼は男だろう? 何で美女なんだ?」

「まあ、見れば分かるって。噂をすれば影、奴さんが見えてきたぞ」


 ルパードが指さした方を見れば、麦畑の遙か向こうにシミのような影が出来ていた。しばらくの間にそれはどんどん大きくなり、馬車の形を取る。


 道に大きな轍を残して、立派な馬にひかれた馬車は僕たちの目の前で停車した。


 馬車の中でこもった話し声が聞こえたかと思うと、扉が開かれた。


「いらっしゃい、ヘンリー殿。待っていましたよ」


 たちまちルパードの声が商売用に変わり、にこやかな笑みが浮かぶ。


「やあ、ルパード」


 男にしては柔らかな声が聞こえたかと思うと、馬車から件の男が降りてきた。上等な靴を履き、上品だがこの場にあった簡素な服を来ている。しかし、その男の風貌は異を放っていた。


 輝くようなプラチナブロンドを首の辺りで結び、その顔は四十をすぎた年齢を感じさせるものの尚美しい。灰青色の瞳はその色にも関わらず尖ったものはなく、優しげである。白い肌は髭など無駄な物が生えてきそうになかった。その染みついた優雅な動作を見ていれば、ルパードが言ったことも納得できる。男に生まれたのがもったいないほどだ。社交界でご婦人としてデビューすればさぞ注目を集めるだろう。


「――あなたがここの経営者になってくれて全く持って心強いばかりですよ。いやあ、俺はどうにも経営方針の決定というのが苦手でして、特に理論。学校でもずっと居眠りばっかりで怒られたほどです」


 ルパードの砕けた口振りにも男はにこやかに笑った。


「まあね、理論なんて好きな物は好きな奴に任せておけばいいのさ。よっぽどの変人でない限り、こんなものは好きになれないよ」

「ああ、前の男もその奇特な一人ですよ」


 そう言ってルパードは急に僕を示した。彼は視線を僕に移す。身長は男の方が高いため、見下ろされる感じになってしまう。彼は僕の姿を認め丁寧に挨拶した。


「どうも。君はルパードが言っていたワイズ君か。君の話や書いた論文のことはルパードからよく聞いているよ。今度の事業は君の後任に付くことになったヘンリー・ウィンスレットだ。どうぞご指導よろしく」

「いいえ、こちらこそ。僕の方こそ、在学中からあなたの論文をよく読んでいて感銘を受けていました。会えて嬉しいです」


 手袋越しにしっかり手を繋ぐ。


「それは嬉しいことだね。また今度の機会にでも君の論文も見せてもらいたいな」

「もちろんです」


 馬車から降ろされた荷物を持ったルパードが言う。


「それじゃあ、とりあえず仮の部屋に荷物を運ばせますよ。いずれこいつが自分の部屋の片づけを終わらせたときに、ちゃんとした場所に移ってもらいましょう」


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