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逃亡者たち  作者: モーフィー
第二章 Noon
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56、惚れ薬

 特別に賓客用にあつらえた部屋は広場に面しているものも、どうも上品に絨毯がひかれている。そしてテーブルに載った料理は豪華で、それを食しながら歩き回る彼らもやはり上品である。老執事が僕たちを通してくれると、ピンクのドレスを着たアン・ティグニーが現れた。


「こんにちは、クリストファー」


 そして僕の隣に立っている彼女を見るとびっくりしたように目を見開かせた。


「まあ、シャインさん…。とってもお似合いよ」


 アン・ティグニーは子どものように彼女の周りを飛び回ると、戸惑っている彼女の手をギュウッと握った。


「私たち男娘のお揃いね。いつもズボンを履いていたおかげでバカにされてきた私も今日はとびっきりおしゃれしてみんなをあっと言わせてやろうと思ったけれど、シャインさんには敵わないわ。どう、あちらでお菓子でも食べません?」


 彼女は僕の顔を見る。僕は頷いた。妹のようなアン・ティグニー手を引かれて人混みに消えていった。僕はある意味ほっとして近くのテーブルから小さなスナックをつまむ。そして近くに立っていた恰幅のよい男が顔見知りだったので簡単な話をした。


 それから様々に呼びかけられる声に答えたり、無視したりと、ようやくベージュのスーツにしゃれた紫のタイを付けたスタンリー・ティグニーを見つけた。いつもの不機嫌な顔さえ浮かべていなければウェーブがかった柔らかい茶色の髪がお似合いの好青年に見えたに違いない。


「…やっと来たか」

「すみません、遅くなりました」

「会ってもらいたい人達がいるのだ。君かルパードのどちらかがいる方がいいと思ったのでね。粗相はしないでくれ」


 そうして引き合わされたのは皆鉄道関係の者ばかりであった。彼らと顔合わせをして談笑していく中に僕はイライラしてきた。


「僕が鉄道建設に反対しているというのにこういうことをやるのですか?」

「多数決なのだ。それで決まったことは例え反対意見であっても君も従わなければいけない。内部で分裂してはすぐに足をすくわれる。それが基本だろう」

「僕はまだ納得していない。それにまだ森の所有者とも言えるシャインと彼女の父の許可を取っていないでしょう」

「それを今から話そうと思ってね。私だって彼女にきちんと話さないといけないと思っていた」


 スタンリー・ティグニーは側で給仕をしていたボーイを呼び寄せて耳打ちした。そして、ワイングラスを取り僕に渡した。


「君も私も事業の成功を考えているのだろう。ならば分かり合わなければ」


 しばらくしてアン・ティグニーと手を引かれた彼女がやってきた。彼女の滑らかな首元には僕が知らないルビーが飾られている。丸みをおびた肩が視線を引きつける。スタンリー・ティグニーは彼女のドレス姿に白い頬を紅潮させ、たちまち見たこともない笑顔で彼女を見た。


「これはシャインさん、こんばんは。いつものあなたも綺麗だと思っていましたが、今日はこれまで以上にお綺麗で」

「兄様」


 咎めるようにアン・ティグニーはいう。兄はそんな妹を睨め付けた。


「どうしておまえが来るんだ」

「シャインさんの道案内をしていたんですわ。友だちですもの」

「私は彼女を商談の相手として呼んだんだ。おまえが来るときではない」

「兄様は商談のプロですわ。だから、私が彼女の補佐として一緒に聞きたいの」

「ダメだ。…クリストファー、すまないが少しの間だけ妹の相手をしてくれないか?」


 え、と言う前にスタンリー・ティグニーはやや戸惑う様子の彼女の手を引き、さっさと一室へ入っていった。後には呆然と立ちつくす僕とアン・ティグニーが残った。


「兄様にやられたわね」


 そして僕に向き直って礼をした。


「…ごめんなさい、クリストファー」


 僕は何も言わずに部屋のドアノブを軽くひねってみた。やはり鍵がかかっている。今すぐにもドアを壊して中へ入りたいが大勢の手前それが出来ない。僕は沸きたつ不安を懸命にこらえる。そんな僕を見てアン・ティグニーは慰めるように言う。


「…私、兄様がどんな甘いことを言ってシャインさんを誘惑しようとも彼女は絶対兄様になびかないと思っているわ」

「え?」

「彼女はそう言っていたもの。本当に強い目をして。だから、そこはシャインさんを信用してあげて」

「けれど…」

「私が心配しているのは彼女が惚れ薬を飲まされないかってこと」

「え?」

「私この前、兄様の部屋に本を借りようと忍び込んだことがあるの。そしたら本棚の、本当に端っこの方に古びた瓶があってそう書かれてあったの。よくよく見たらロンドンで高名な女魔術師のものだったわ」

「それって本当に効くのか?」


 アン・ティグニーは肩をすくめた。


「高名って事はそれほど多くの人が効き目を確かめたからでしょうね」

「そ、それじゃあ…」


 アン・ティグニーは悔しそうに頷いた。


「私このことを今さっきに思い出したのよ。シャインさんにこのことを言えなくって」


 なんてことだ。薬のおかげで彼女は煙たがっていたスタンリー・ティグニーを受け入れ、その潤んだ瞳をスタンリー・ティグニーへと向ける。そしてその唇をあの少女のような顔の男に託す。考えられない。


「私も分からないわ。本当に兄様がそんなことをするのか。そのくらいの分別は事業者として持って欲しいけれど、兄様って子どもみたいな所があるから。とりあえずは待つだけよ」


 そして僕たちは華々しいパーティー会場の隅っこで世にも不幸そうな顔つきをして立っていた。待ったのはほんの十数分だけだと思う。しかし、それは何時間にも渡っているように思えた。


 スタンリー・ティグニーに手を引かれて部屋から出た彼女は僕の顔を見ずにスタンリー・ティグニーに優雅な礼をした。ちらりとスタンリー・ティグニーを見ると満面の笑みであった。更に彼女の手の甲に口づける。


「その点はこちらの方でもじゅうじゅうに考えさせていただきます。それではまた」

「ええ。ありがとうございます」


 そして彼女は顔も見ずに僕の手を引いた。


「人のいないところへ」


 彼女は他の者の視線を気にすることなくすたすた歩いていく。後ろでは相変わらず笑顔のスタンリー・ティグニーと心配そうなアン・ティグニーがこちらを見ている。


「…どこに行けばいい?」

「右に曲がれば僕の部屋がある」


 彼女はドアを閉めた。突然、パーティーの喧騒がシャットダウンされ、音が遠くに感じられる。ここには僕と彼女の二人だけ。




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