52、ドレス
僕は静かに道を外れると森の中に入る。しばし生い茂った草をかき分けて歩いていると、どこから現れたのか彼女が立っていた。長い睫の間だから碧の瞳が興味深げにのぞいている。そしてそよ風のように僕の側に立ち、僕の手のひらに自分の手を添えた。
「重そうだな。手伝おうか」
「いいや、これは全部あなたの物だ」
僕はそう言って箱を下ろした。あいた手で彼女を抱きしめ、キスする。その腕の中で彼女は僕を見上げる。
「私の…?」
「パーティーに来てくれるんでしょう。そのためのドレス」
彼女は心外だったというようにまごついた。
「ズボンではダメなのだろうか…?」
「うん。パーティー自体は本格的なものではないけれど、やっぱりズボンはまずいと思う。ああ、どうしてもというならば仕方がないけれど」
「別に構わないが。スカートは歩きにくいのだ。それに、ドレスなんて私のような粗暴者が似合うとは思わない」
「いいや、そんなことはない」
彼女は箱を開け、綺麗に折り畳まれたドレスを取り出した。
滑らかに滑るそれは、淡い濃い赤の生地を基調としており、よく分からない僕でも流行の物でかなりセンスはいいドレスだと分かった。ただ言えることは、アン・ティグニーが言っていたとおり彼女の完璧な肢体を出し惜しみしないと思われるほど露出が多そうであった。彼女は一瞬見ただけで、また綺麗に折り畳み中にしまった。これを着てくれるのか心配であったけれど、彼女は肩をすくめた。
「私は人間のことをもっと学びたい。どうして窮屈なドレスというものを好んで着るのか身をもって体験すれば分かるだろう。これはあなたが?」
「他の人に頼んだんだ」
「そう…それでは私はいつこれに着替えればいい?」
「…シャイン、僕は午前中は会場を見なければいけない」
彼女は頷いた。僕は彼女の漆黒の髪に指を絡ませた。何よりも柔らかな感触だ。
「分かった。私は待っている」
「暗くなってから大きく火が焚かれ、そこで音楽をならしてダンスをするんだ。その時にあなたは僕と共に行く。暗くなれば耳が見えない。僕は自分の役目が終わったらすぐここに戻ってくる」
「…いや、こうしよう。私たちが初めて会った展望台を覚えているだろうか。日が暮れる前にそこに来てくれないか? このドレスでは一歩も森を歩けない」
「そうだね。そうしよう」
僕は彼女に思いを込めて口づけして、名残惜しげに森を出る。いつまでも僕を見つめる彼女の視線が、僕の胸を焦がす。わずかな別離だが、右腕をもがれるような痛みだ。ずっと、彼女の側にいたい。この腕より遠くに放したくない。そのために、僕はどうすればいいのだろうか。
すっかり消沈した僕は突然溢れるような活気に飛び込んでしまった。パーティーはもう始まっているのだ。辺りでは笑いがさざ波のように満ち、人々は皆笑顔だ。
まだ明るいというのに恋人達は暗がりでキスを交わし、愛の言葉を囁いている。その時僕は思いついた。今日、彼女にプロポーズしよう。そうすればずっと一緒にいられる。
「クリストファー様」
「クリストファー様!」
既に色とりどりのドレスで着飾った娘達がやってくる。宝石にみせかけたガラス玉を競い合うように身につけ、乙女の恥じらいで頬を赤く染めている。顔見知りではあるが、声をかけたこともない。娘達は互いを突っつきながら、言う。
「あの、御方は夜のダンスの相手をもう決めているのですか?」
「ばかね、アン・ティグニー様に決まっているじゃない」
「いいえ、アン・ティグニー様とはもう…」
「それじゃあ他の…」
「私たちだって…」
「まだ、誰も誘っていない…」
娘達のおしゃべりは小鳥のさえずりとなり、耳からすり抜けていく。ああ、スタンリー・ティグニーがテラスに立っている。結局の所、妹にかり出されたのだろう。午前中は僕だけがパーティーの管理を行うはずだったけれど。
「ごめん。もう行かなくては。何かあるならパーティーの後に言ってくれ」
なぜか呆気にとられている娘達を後目に僕はテラスに駆ける。
「娘達を口説いている暇があるなら、早く来てくれ」
「ごめん」
スタンリー・ティグニーは不機嫌そうに頷いて、僕の仕事内容を説明した。それはまったくつまらないものだった。喧嘩の仲裁、不法行為の摘発、賓客の迎え。スタンリー・ティグニーは茶が入ったカップを取り上げ立ち去ろうとし、立ち止まった。
「…妹との破談は彼女がいるからか?」
僕は一瞬、呼吸を止めた。
「何のことです?」
「知っているだろう。そっちと彼女、…シャインさんと何らかの関係があるということは私ももう知っている。先ほども彼女の所へ行っていたのであろう?」
僕はまじまじとスタンリー・ティグニーを見た。その顔はふざけてはいないものも、どこか取り繕ったものがあった。




