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逃亡者たち  作者: モーフィー
第二章 Noon
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50、兄妹喧嘩

 一歩森に立ち入ると先ほどの騒がしかった気分も薄れ、平穏へと戻っていった。空を網目状に縫いつけている木々、どこから聞こえてくる鳥の声。すべてが僕を非日常に連れて行く。


「エウロス、南東風の神よ

 そして世界は回り続ける

 周知の事実と共に

 人は言う

 あの遙か彼方に広がる空の色は

 カリビアン・ブルーだと…」


 最後の余韻が消えたとき、僕は木から生まれてきたかのような人影を見つけた。黒い簡素な服を着ていてもその美しさは失われる事はない。僕は顔に笑みが広がっていくのが感じられた。


「…シャイン」


 僕らは踊る、歌う。


 秩序はなかった。


 その滑らかな手を取り、彼女の笑顔でこの世界は回っていた。


 僕たちは少し開けた草原へと出る。そこは丈の短い白い花に覆われていた。僕は彼女に手を引かれてその海の中へはいる。風に身体をのせ、緩やかに舞う彼女を見ながら僕はゆっくりと花の甘い香りに包まれた。明るい日差しが彼女の白い肌を極限に輝かせる。僕は心に溢れる幸福を感じながら花の海に身を預ける。これほど、心が安らいで、それでいて歓喜しているのは初めてだった。


 舞終わった彼女はふわりと僕の隣に寝ころんだ。僕は手に持っていた花を彼女の髪にさす。彼女は幼女のような微笑みを浮かべて黒い髪を広げて目を伏せる。その神秘的な表情に引き寄せられるように僕は顔を近づけた。しなやかな指が僕の頬に触れる。


「クリストファー…あなたは美しい」


 僕は驚いた。彼女は更に神聖な物に触るように僕の髪に触れる。その指は僕の瞼へとその下へと移動していく。その瞳は語る。僕は彼女の頬に触れる。お互いに収まる場所を探す。僕はゆっくりと彼女に口づける。その唇は熱く柔らかだった。彼女への愛が、稲妻が突き抜けるように走る。唇が少しずつ開き、舌が絡み合う。キスが終わっても、お互いの唇を欲するように新たなキスが生まれる。


「…私はずっと孤独だった」


 彼女はぽつんと囁く。彼女の手が戸惑いながら、それでも人の体温を求めようと彷徨。服の下の細い肩はわずかに震えている。その心の傷はまだ深かった。とにかくその傷から彼女を守ろうとしっかり抱きしめる。


「…大丈夫。これからずっと僕らは一緒だ」


 彼女は何も言わずただ、僕の背中に手を回した。彼女は僕の腕の中で泣いていた。彼女の大粒の涙に僕は決意を固める。これから何があっても彼女を守っていく。


 僕たちは日が暮れるまでずっとこうしていた。腕の中の彼女が子どものように平穏を取り戻していくのを見つめる。



「…クリストファー、もう時間だ。もう帰らないと」


 僕はずっとこうしていたかった。その意を込めてずっと彼女を抱いていると、彼女は僕の額に優しくキスして腕をほどいた。


「僕はあなたのパートナーだ。エルフの習慣としては、パートナー同士はずっと一緒に時を過ごすんでしょう?」

「ええ。しかし、あなたは人間だ。あなたにはあなたの生活がある」

「あなたなしでは僕の生活も成り立たない」


 僕はもう一度彼女を捕まえようとしたが、彼女は笑いながら僕の手をすり抜ける。その肌は夕日を弾いて黄金に輝いていた。


「あなたなしでは多くの人の生活が成り立たない。私一人の幸せのために多くの人が困ってはならない」


 僕は彼女と今生の別れのように離れなければならない事実に苦しんだ。


「…また、明日来る」

「ええ、待っている」


 彼女は黒いフードを被った。僕は絞り出すように言う。


「…シャイン、愛している」


 彼女の唇が微笑んだ。


「私もだ。クリストファー」





 森を降りると、既に夜であった。僕は彼女のことを気にかけながらも皆と談笑しながら食事をした。


「さて、明日は準備するぞ。クリストファー、おまえ、最近森によく行っているようだが午後からあけとけよ」


 そのルパードの言葉に、スタンリー・ティグニーがこちらをちらりと見た。僕は何気なく切り返す。


「僕が手伝えることなんてあるのか? 労働者達がすべて率先してやってくれそうなのに」

「おまえはそれの指揮だ。それと、パーティーをどう進行するかをお願いする」

「それでは、私も手伝いますわ」


 ルパードはちらりと僕を見て、僕は頷いた。


「…それじゃあ、お願いします」

「私はパーティーでは特に何もしない。何かあったら呼んでくれ」

「まあ、そんなことおっしゃっていいのですか? ここの女の子は兄様か、ルパードか、クリストファーと踊ることを目標にしていますのに? ちょっとしたサービスだと思って踊ってあげたらどうです?」


 スタンリー・ティグニーは何も答えずに手に持ったワインを飲んだ。僕はその瞳の先に彼女の姿が存在するように思えた。何かと言ってスタンリー・ティグニーは恋敵ともいえる男である。


 スタンリー・ティグニーはちらりと妹を見た。


「そう言うおまえはどうなんだ。言っておくが、嫁入り前の娘が大勢の男と踊るのは許されんぞ」


 スタンリー・ティグニーは僕を顎で示した。アン・ティグニーは黙り、僕を見た。これ以上長引かせても仕方がない。僕は意を決して言った。


「スタンリー殿、あの、アンさんとのご婚約は破棄させていただきます」


 一瞬、スタンリー・ティグニーの少女めいた顔が硬直し、そして彼はゆっくりワインを飲み干した。


「そうか、君にとっては良い話だと飛びついてくるとは思っていたが、どうやら分別はあるようだ」

「兄様!」


 彼女は一瞬した後に続ける。


「私と彼の将来の像が合わなかったのです。決して彼が悪いわけではございません。これからも彼を友人と思って援助してください」

「友人も何も、この事業の出来不出来は私の進退に関わる。おまえがどう言おうと私はここを援助しなければならない。…残念ながらだが。そして、アン。この茶番が終わったら向こうに帰るぞ。父様にこのことを報告しなければいけないし、おまえの新たな相手も探さなきゃならないだろう」


 アン・ティグニーは一瞬黙り、それから低い声で静かに言った。


「…いいえ、私はイアン・フランクリンと結婚します」


 数秒が経ち、彼の顔は一気に青くなり、そして赤くなった。


「…まだあの男と連絡を取っていたのか!」

「彼は優秀です。今は貧しいかもしれませんが、その代わり私が事業を興して彼を支援します! 誰にも迷惑はかけませんわ!」

「女のおまえに何が出来るんだ!」

「私は今、商業学校へ通い経験も積んでいるところです。女だからって何だというのです?先に言っておきますけれど、十七の歳には先生方から大学への推薦もいただきました! 兄様より一年早いわ!」


 それからティグニー兄妹は黙る。双方ともそろって上品な顔を激昂させ睨み合っている。僕とルパードは呆気にとられてその大喧嘩の始まりを眺める。僕とルパードが見ていることに気づいたアン・ティグニーが静かに言う。


「…部屋に行って話しましょう」


 兄妹が立ち去り、ルパードは肩をすくめる。


「まあ、明日までに終わってくれたら何でも良いけれどな。ま、個人的にティグニー嬢に一票」


"Caribbean blue" by Enya

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