46、月を背負って
「シャイン! すまない。僕が間違っていたんだ!」
しかし、彼女は既に森の中に消えていた。僕も迷わず森の中を突き進む。行く当ても自分のみの安全さえもないが、彼女に謝りたい一心だった。辺り構わず生えている草木に躓き、口の中では入ってきた虫の味がする。転んだのも一度や二度でない。何度も彼女の名前を呼ぶが、答えはない。いつも、僕がどこにいても現れてくれたのに。
どのくらい経ったのだろう。僕は神秘な森の中ですっかり途方に暮れてしまった。
「シャイン、本当に、ごめん」
どうしていいか分からないのに焦りだけが積もる。無性に涙が溢れる。どうして、あんな事を言ってしまったんだろう。彼女はちゃんと伝えようとしていたのに。僕は胃の中でひっくり返っていたアルコール分とコーヒーを吐いた。ものすごく、胃がむかむかする。
その時、白く輝く満月が落ちてきたように、鳥が羽ばたいてくる。思わず差しのばした手に止まったのは見知った顔だ。
「ワイズダム…」
世に一匹といない白い烏だ。僕はなぜかこの鳥を見て安心感を抱いた。
「シャインがどこにもいないんだ。…お願いだ、彼女の元に連れて行ってくれる?」
とても鳥とは思えないほど叡智に満ちた瞳が僕を刺す。
「僕が犯した過ちだ。許してくれなくてもいい。だけれど、謝りたい」
鳥は僕の決心を確認するとたった一声鳴いた。すると、茂みから狼の群が姿を現す。目だけが光り僕を見ている。白い烏はたいぎそうに羽根を羽ばたかせてその中の一匹に止まった。
「彼女の元に案内してくれる?」
突然、狼たちは走り出した。僕もそれに負けないよう一生懸命走る。彼らが走る道は決して楽な道とは言えず、僕は何度も転んだ。一度、左の親指を木にぶつけ、骨がきしむ音が聞こえた。
そしてようやく開けた場所に出た。僕は喘ぎながらその場所に出る。狼たちは今まで静かだったのが嘘みたいに狂ったように吠えている。その先にいるのは、彼女だ。そして彼女が立っている所とは断崖絶壁であった。
「…しっ、おまえ達。私がいなくなっても他の誰かが来るんだ」
彼女は月を背中に狼たちを撫でた。そして僕の姿に気がつく。
「シャイン」
「…連れてきてしまったのね」
僕は彼女に近寄ろうとした。しかし、彼女は厳しい顔を保ちながら高慢に言う。
「立ち去りなさい」
「どうして。あなたは今ここで死のうとしている。それを見捨てる事なんて非道というしかない」
「生きようが死のうがその者の人生だ。他人が口出しするものではない」
彼女は月を背負って冷たく言う。これが情熱と抑制の両方を持つエルフの荒々しさだ。森を通る際にこしらえた傷がじくじく痛む。僕は黙って下を向いた。
「分かっている…。それでも僕はその人の僕の過ちが絡んでいるとしたら、一生後悔せずに入られない。僕があなたに言ったこと、あれは間違いだった。僕はただあなたを奪おうとしたスタンリー・ティグニーに嫉妬していたんだ」
「いいや、あなたが言ったことは正しい。私はあなたの人生を狂わした。本来、人間とエルフは交わってはいけない存在だったんだ」
風が吹き付け彼女の長い髪が翻る。
「私は四百年ずっと一人だった。友が幸せそうに伴侶と時を過ごし死んでいくのを何度も見た。そして私にもその時が来るのだと信じていた。しかし、時はむなしく過ぎていった。最初のあこがれは次第に乾いていった。時折、仲間達の中にいるのがいたたまれなくなった」
彼女はぎゅっと手を握った。気丈にも細い身体は立っているが、少しでも強い風に吹かれたら転落するのではないかと気が気ではなかった。
「そんなとき、ようやく私の身体にも変化が起こった。背は伸び大人となった。しかし、伴侶として選ばれたはずのエルフは成長しなかった。伴侶もないエルフ、半端者となった。私は苦しんだ。一生孤独のまま死ぬのかと」
彼女は頭を振った。
「…でも、一つだけ思い当たることもあった。もしかしたら、あの仲良くなった人間が私の片割れではないかと。けれど、ありえない。過去にも見たこともない。文献にも人間と契りを結んだエルフなんていなかった。だけど私はその人の気持ちが知りたかった…」
彼女はそっと僕を見た。その瞳に燃えている炎は冷たく僕を刺している。
「シャイン…。僕はあなたを愛している」
「気休めで言わないことだな。私の命を救うために言っているならば、それは無駄なことだ」
「僕は、全身全霊、誓う」
彼女は薄く笑って月を見た。近寄っていた一匹の狼を撫でる。それからその耳元で何かを囁くと狼たちは森の中へ散っていった。彼女は本当に死ぬ気だ。どうしたら分かってもらえる? さっき転んだせいで口の中が切れたらしい、血の味がする。僕の気持ちを彼女に伝えるために僕は無理矢理心を鬼にする。
「…あなたは怖いんだ」
彼女はきっと振り向いて、僕を鋭い瞳で見る。僕もその光に抵抗するため歯を食いしばり踏ん張る。
「あなたは自分の気持ちが裏切られることを恐れている。本当に思っていることを言えずに死のうとしているあなたは弱虫…」
その時、疾風が起こり僕は地面に押し倒された。胸の上には顔を怒らせた彼女が乗っかっている。彼女自身軽いため、対して重荷ではないが、疲労困憊した身体には抜け出す力がなかった。
「私を何と呼ぼうとしたのか聞かせてもらおうか」
僕は負けずにその息がかかるほどに近くの碧の瞳を見て言い返す。その奥にある物。僕は間違っていないと確信した。彼女はその気持ちを否定している。僕を傷つけないために、そして彼女自身がこれ以上苦しまないように…。それでもそれは間違っている。
「弱虫だ。あなたが生きてきた数百年の間にあなたは臆病になったんだ。自分の意思を伝えることも出来ないなんて…」
「あなたを愛している、クリストファー」
「僕もだ、シャイン」
僕は有無を言わさず上にいた彼女を抱き寄せた。その途端、これがずっと僕が欲してきたことだったのだと知った。すべての疑問と不安のピースが当てはまり安堵に包まれる。胸の内の鳥、それは彼女の伴侶として定められた僕の徴だったんだ。彼女は腕の中で抵抗しようと藻掻いていたがやがて収まった。
「…僕らはその思いが自分だけと思っていたんだ。僕がスタンリー・ティグニーとの会話を見たときも、あなたがアン・ティグニーを見たときにも。僕たちはずっと求め合っていたのに…」
腕をゆるめ彼女の顔がよく見えるようにする。彼女は無表情を装っているが、頬を赤らめてその顔にはさまざまな変化が飛び交っている。
「あなたはずるい…」
僕は笑って彼女の顔を撫でようとした。手を挙げた途端、忘れていた痛みが甦る。
「いたっ」
「…あなた、怪我しているし、汚れている」
「転んだんだ。狼たちが手加減してくれなかったから」
彼女は呆れた様子で起きあがり手を差し伸べた。
「まずはお風呂から。そして傷の手当てをして、続きをしよう」
やっと…!




