44、裏切り
昼食時は、シャインは姿を見せなかった。僕とスタンリー・ティグニーは話をすることもなく黙々と食べた。
午後の仕事が終わり休憩に移ったとき、僕は熱い日差しを避けるように木陰で飲み物を飲んで涼んでいた。その時、彼女とスタンリー・ティグニーが近くを歩いているのを見つけた。スタンリー・ティグニーが暇さえあれば新しくやってきた樵の娘に会いに行っているという話は噂で聞いたことはあった。
明るい日差しの元、今こうしてみると二人、共に歩いている姿ははっきり言ってお似合いであった。少女じみた容貌のスタンリー・ティグニーとズボン姿の彼女。これが昔の『彼』であった彼女が望んでいたずっと大人にならない姿ではないだろうか。しかし、胸の内では鳥が首を絞められたように苦しんでいる。呼吸が出来ない苦しさと同じように彼女に対する感情を抑えられて。その時、すぐ近くでスタンリー・ティグニーが彼女に言う声が聞こえてきた。
「実はここに来たのはあなたに言いたいことがあってなんだ。…実は五日後のパーティーで私と踊って欲しいんだ」
彼女は宙を舞っていたような足を止めてその瞳をスタンリー・ティグニーに向けた。
「その頃には私は森に帰ろうと思っています。よそ者の私がいつまでも世話になっていたら申し訳ございません」
「いやいや、そんなことないです。あなたにはずっとここにとどまっていて欲しい。つまりですね…」
美しい黒髪が光を弾く。光に目を細めたその神秘的な表情はずっと見入っていたいと思うほどの美しさだ。
「私にはまだ結婚を約束した人もいない。けれど、初めて会ったときから感じていたんだ。あなたほど美しい人はいない。…あなたが私の妻となってくれるならばこれほどうれしいことはない。あなたの父だって一生困らないほどのお金を援助しよう。私は一生懸命働いてあなたを世界中の宝石と、ドレスで飾ろう」
僕はスタンリー・ティグニーと同様息をひそめて彼女の返事を待った。本当は飛び出していってスタンリー・ティグニーを殴りたい。彼女は長い睫をふせた。
「ええ、そうですね。それは良い考えだと思います。けれど…少し、待ってくれませんか? 父にだって聞きたいことはあるし」
僕はこの耳を疑った。彼女は今何て言ったのだろうか。彼女が愛しているのはスタンリー・ティグニー? 僕は自分でも戸惑ってしまうほど狼狽えていた。
僕は彼女を愛している? 確かに彼女とは小さい頃からの知り合いである。とっても大切な存在である。けれど、僕が戸惑っているのはその感情をどう定義するかであった。僕が彼女に抱いているもの、友に対する物より深く家族のような者よりも太い。そう、僕は彼女に恋している!
僕は今にも飛び出していきたかった、しかしそれを邪魔したのは大人になり、身につけなければいけなくなった損得勘定だ。飛び出していけばかなり分が悪くなることは間違いなかった。感情のまま飛び出そうとする鳥を理性という錠で閉じこめられ、僕が身動きできないままいると、彼女は優雅な足運びで去っていった。後には顔をにやけさせたスタンリー・ティグニーが残る。
僕は思わず、スタンリー・ティグニーだけではなく彼女にさえも怒りを抱いた。彼女がこちらに来てからすべてがうまくいかない。アン・ティグニーとの関係は悪くなり、彼女に対しての感情が、心の鳥が僕の心をずたずたに刺し、しくしく痛む。僕は乱暴にシャツを着替え夕食の席に向かおうとする。その時、豊かな声が聞こえた。
「クリストファー」
振り向くと彼女がいた。ズボン姿だけれど、髪には尖った耳を隠すために髪飾りを身につけている。官能的とさえいえる唇に子どものように無邪気な笑みを浮かべて彼女はやってきた。すべての光を吸い込んで光る彼女の笑顔に今日の僕はただ強ばった笑みを返すことしかできなかった。そんな僕の態度に彼女は少し異変を感じたようだが、側に立った。
「あなたに言いたいことがある。会えて良かった」
「うん」
僕の声は老人のように乾いていた。そのことに気づかない彼女ではない。すぐにさっと身を引いて誠意を込めて、いや、そのように見えるよう謝った。
「すまない」
それでも何も答えない僕に彼女は言う。
「何か心配事があるなら聞こう。だてに四百年生きてきた老人ではないぞ」
僕は微かに笑った。何もかも信じられない。
「シャイン、あなたはどうしてここに来たの?」
その言葉には少し毒が含まれていていた。彼女はそれに気が付き表情を強ばらせた。青白い顔の中でただ一つ碧の瞳が老いた厳粛さで僕を捕らえる。それでも僕はあざけるように彼女を見返した。
「あなたがここに来てからすべてはおかしくなった。僕の結婚だって。昔だってそうだ。あなたと会ってから僕の人生は狂い始めたんだ」
彼女の眉が動き、石膏のように固まる。彼女のすべては色を失っていくように思えた。そんな彼女の姿を見て、僕は自分のことのように心が傷つけられた。やめてくれ、これ以上彼女を傷つけないでくれ。僕はただ、嫉妬しているだけなんだ。それでも僕の感情は溢れるばかりに心ない言葉を紡ぎ出す。
「あなたと会わなければ良かったんだ。あなたは意味もなくただ自分の機嫌で僕の心をかき回した。あなたは、あなたは…」
僕は彼女に殴られたかったのだ。昔のように荒々しいけれど妥当な怒りに巻き込まれ、目を覚まさして欲しかった。彼女の瞳に津波のような激しい怒りが現れる。
彼女は獣のように荒々しく僕を壁に押しつけた。僕は目をつぶって衝撃を受け止めようとする。しかし、何もなかった。
彼女は確かにそこに立っていた。しかし、その瞳に浮かんだ怒りは潮が引いていくように消えていき、後には哀れみだけが残る。僕は力無く僕に覆い被さるようにして立っている彼女を押しのけた。
「…行って。スタンリー・ティグニーが心配している」
彼女はハッとしたように僕を見た。
「あなたは、聞いていたのか?」
僕は彼女を振り切るようにこの場から立ち去った。
部屋の中に閉じこもり、ワインをあおる。やけ酒なんて今まで決してやったことがないことだが、今はこの酔いが気持ちいい。何もかも忘れて、過去の楽しかった頃へ…。
木漏れ日の中で踊る『彼』…




