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逃亡者たち  作者: モーフィー
第二章 Noon
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43、失敗

 彼女はそっと僕の腕に触れた。彼女の顔が近づく。輝く将来のために。僕もそれを受けようと目を閉じた。


 瞬間、碧の瞳がこちらを見る。僕ははっとして身を引く。目を閉じて待っていたアン・ティグニーは訝しげに目を開ける。


 頭が真っ白になりパニックに陥る。どうしてこんなことに? 僕が愛しているのはアン、アン・ティグニー。それなのになぜ彼女のキスを拒んだりしたんだ? しかし、僕の胸でその考えを制したのはあの鳥の存在であった。大きな翼で僕のうちで成長しているアン・ティグニーへの好意を抑え、その冷静な瞳を通してでしか彼女を見ることしかできないでいた。


 僕は息すらできずに彼女を見つめることしかできなかった。これで彼女との縁談は破棄となるだろう。何の表情も見せずに僕を見つめるアン・ティグニーに、僕は自分の犯した失敗に顔さえ覆えずに固まっていると、彼女はあろうか僕に笑顔を見せたのだった。その一瞬の笑顔に更に混乱して固まる僕に彼女は耳元に口を近づけるとそっと呟く。


「ありがとう」


 何のことだ?


 しかしその問いかけを言う前に彼女は飛び去るように自室に帰っていった。後に残された僕は呆然と椅子に腰掛けた。自分がした心配、アン・ティグニーの見せた一瞬の笑顔。そして無意識のうちに瞼の裏で踊る彼女の碧の瞳。




 次の日、僕は朝一番にアン・ティグニーの部屋を訪ねると、彼女は外出したという。聞くところによると、明日にしか帰ってこないらしい。僕は気落ちしたまま朝食の席に向かう。まだ誰もいず、湯気の立つスープを飲んでいると、スタンリー・ティグニーがやってきた。後ろにはズボンを相変わらず身につけた彼女もいる。二人の楽しそうな笑みを見つけたとき、僕の心は針で刺されたように痛んだ。僕の視線に気づいたのか彼女はその笑顔を引っ込めた。その動作がまた僕の胸を乱し、ベーコンを切る手つきが乱暴になる。スタンリー・ティグニーがこれまで見たことないほどの笑顔で彼女にミルクを注ぐ。


「これは、毎朝ここで取れる絞り立てのミルクです。私もこれはおいしいと思って毎日飲んでいるんですよ。そうですね、バターやチーズも絶品です。このパンに乗せて、そう、そうやって食べるのが本当おいしいんです」

「…おいしい」


 何百年と生き、美食家のエルフである彼女はこれよりももっとおいしいミルクを飲んだことあるはずだろう。しかし彼女はその美しい顔を見事にとぼけて言った。いや、あるいは本当においしいと言ったのか。スタンリー・ティグニーは顔をしかめたことがないというほど顔の筋肉を弛緩させて彼女に見入っている。


「…すみません、ティグニーさんよろしいでしょうか?」


 その途端、現実に戻ったように彼はいつもの不機嫌そうな表情で僕を見た。


「この前の機械購入の件ですが、販売者が値上げを申し込みに来たのですが」

「なぜだ」

「ロンドンでは機械を使って安い綿布をつくる綿工業が盛んになっているようでそこの機械をつくった方が売れる、と」

「ふん。多少の金額ならかまわん。石炭は将来性のあるもんだ」

「それなら、そのように取りはからいます」


 隣で彼女が面白そうに僕たちの会話を見ていた。僕と目が合うと、彼女はウインクして見せた。それによって凍っていた心が徐々に溶けていく。それを見てかスタンリー・ティグニーはやや冷たい口調で言う。


「あ、それと石炭の輸送道は予定道理順調だろうな」

「ええ、今では滑車が通りやすいように簡易レールを敷いているところです。計画通り五日後には完成しそうです」

「実はその祝いに、パーティーを開くことになった。従業員を労うためのものだから大がかりになる。それにあわせたワインと食事を調達してくれ。そしてそれらの請求書をまとめて私に提出するように」

「分かりました」


 僕はナプキンを置いて立ち上がる。


「それではまた」



 その日一日は外に出て輸送道の準備をすることになった。ルパードが帰ってこない間、僕が指揮を執らなければいけない。そとでは少し動いただけでも汗ばんでしまう。けれども緑葉が精一杯光を浴びようと枝を伸ばしてくれるおかげで陰に入ると涼しかった。


 僕と同じぐらいの娘が顔を真っ赤にしながら冷たい飲み物を持ってきてくれた。その娘は後ろをちらちら見ている。その視線の先には仲間らしき娘が固まって急かすように手を振っている。そんな娘達の無駄な動きのせいでだいぶ氷が溶けてしまった飲み物を受け取る。


「ありがとう」


 僕はそれを一気に飲んで娘に渡した。


「あ、あの」


 娘の灰色がかった青い瞳が揺らぎながら僕を捕らえる。僕と目があった瞬間娘の顔は更に赤くなった。そんな顔を見せられるのは初めてのことではないが、どうも苦手である。こうなれば相手はもじもじして何を話しているか分からなくなる。それでも僕は礼儀正しく答える。


「何ですか?」


 娘は僕が浮かべた笑顔に励まされたのか続ける。


「ワイズ様はパーティーでのダンスのお相手は決まっているんですか?」

「え?」


 何を聞かれると思いきや、まったく予想もしていないことだ。待てよ、パーティーでダンスをしなければいけないのか? しかし、娘は僕の疑問符を別の意味と受け取ったらしく慌てて弁解する。


「あ、もちろん、アン・ティグニー様と踊るって事は分かっています。けど、他の人とも踊るのかなと思って」

「僕はパーティーってことを今日知ったし、ダンスがあるって事も今初めて知ったんだ。だから、誰と踊るか分からない」


 ぎこちない言葉を娘は宝物を受け取るようしっかり聞き取って、失礼しますと飛ぶように仲間達の所へ駆けていった。けたたましいおしゃべりをする仲間達に囲まれ娘も叫ぶように今さっき僕が言ったことをしゃべる。


 僕はパーティーのことをそれほど重要のことと考えていなかったのだが、周りで飛び交ってくる従業員の話では一大のイベントのように聞こえてくるのだった。特に娘達は仕事中にも関わらずドレスをどこで調達してくるか、誰と踊るのかと言うことが最大の関心事のようだ。そして、僕が側を通ると娘達は急にしおらしくなって熱い視線を送るのだ。僕が何か用を頼もうとしてももじもじして全然話が進まない。僕は何のことか分からず呆然とするほかなかった。


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