38、夜の訪問
最近の状況を僕たちの用意した格式張った口調で聞いたスタンリー・ティグニーは、不機嫌に首を振っただけだった。また、高級茶葉として取り寄せたはずのものもスタンリー・ティグニーの前ではどこにでも売っている物だと、一蹴された。そして僕らが積み上げてきた努力を当然なものだと言い、また、要領が悪いという言葉もいただいた。さすがにカチンときたルパードは口を開いた。
「それではティグニー氏、私たちは精一杯の努力を尽くしましたが、予想外の出来事が起こり、石炭を運ぶための通路建設は延期されたのです。これは仕方のないことでありましょう」
スタンリー・ティグニーは真新しいテーブルの上に手をたて、その少女じみた顔をしかめたまま話し始めた。
「君たちの話はよく分かった。君たちが一生懸命やっているのも分かる。しかし、これは現実に存在する事業だ。学校でやる紙の上の空想上じゃない。その予想外のこともあり得るし、それが原因で破れていく会社だってある。甘えでやれるものじゃない」
「何…! お、いや、私たちが何も分かっていないと?」
「いや、そうは言っていない。しかし、君たちが現実に気がついていないと言うのは確かだ」
それから、スタンリー・ティグニーは明快な口調で話し始める。全くなってないと真っ正面から、それに僕たちと同じ年頃の優男から言われ、最初は不快を露わに聞いていた僕らも彼の理路整然とした話を聞いていると、唸らずにはいられなかった。彼はやり手資産家の父仕込みの経営スタイルを獲得していた。僕やルパードがそう太刀打ちできる相手ではないと痛感させられた。
彼の理論に僕たちもとうとう自分たちの非を認めなければいけなくなった頃、一輪の花のようなアン・ティグニーが部屋に飛び込んできた。
「皆様、夕ご飯だそうよ」
僕たちは驚いて彼女を見た。なぜかというと彼女はご婦人達が身につけるドレスではなくて少年が身につけるズボンを履いていたからだ。長い髪は後ろでくくり、僕らより年下の彼女の少しアンバランスな格好も可愛らしく見えた。
「アン…! なんて格好をしているんだ」
「どう? 似合うかしら」
「淑女がなんて格好を…! 今すぐ着替えてきなさい!」
経営者の顔から一気に兄となったスタンリー・ティグニーは顔を真っ赤にして怒る。隣のルパードはくすりと笑った。確かにスタンリー・ティグニーは先ほどの威厳は消え去り、まるで口うるさい子守のようだ。
「可愛らしいお嬢様だな。まったく、こっちが惚れそうだぜ」
ルパードはこっそり言った。アン・ティグニーの方はと言うと悪びれもせず言う。
「いいえ、兄様。父様からも許可を取っております」
父の名が出るとスタンリー・ティグニーは口を閉ざした。
「…おまえがどうして我々を呼びに来るんだ。呼びに来るものは他にもいるだろう」
「だって、兄様とおそれ多くもここの事業主が熱心に言い合いをしていたら誰が夕飯と口をはさめるお思い? 首をはねられる心配がないのは私ぐらいでしょう?」
スタンリー・ティグニーはなおも言い募ろうとしたが、やがてため息をついて立ち上がった。
「続きは明日話そう」
それから面白い夕食が始まった。スタンリー・ティグニーが事業について不満げに何か言い、僕らが何かしら答えていると、隣からは無邪気にアン・ティグニーの横槍が入った。そのたびにスタンリー・ティグニーは妹をたしなめるが、アン・ティグニーはというと僕たちの太刀打ちできない彼の理論を彼女自身の理屈で難なくかわす。スタンリー・ティグニーが顔を真っ赤にして怒っているのを見ていると
僕らの無念が解放されるようで心地よかった。
スタンリー・ティグニーは食べ終わるとさっさと僕らが用意した部屋へ向かう。お次に元気よくごちそうさまと言ったアン・ティグニーが立ち上がった。すると、隣にいたルパードが僕をこづく。
「後で彼女を訪ねろよ。人払いしておくからよ」
僕は一瞬、兄のスタンリー・ティグニーを思い浮かべた。あの母性的な兄貴にこのことがばれたら何となく二度と妹に会うなとか言われそうである。ルパードにそのことを言うと、笑って同意した。それから碧の瞳が思い浮かんだが、それを慌ててうち消す。僕が今見なければいけないのは将来だ。
ルパードに言われたとおり、グラスに入れたワインを持ち彼女の部屋を尋ねるが、不在であった。彼女は僕との見合いのことを知っているのだろうか。それからいきなり女性の部屋を尋ねるのは失礼だと思い立って、顔を赤くし彼女が部屋にいなくてよかったと思った。それから何となく、近くのテラスに立ち寄ると、白い夜具を着た彼女が立っていた。今は女性用の夜具を着ている。彼女は僕の足音に気づくと振り返った。
「こんばんは」
彼女はあどけなく笑った。本当に彼女が僕の妻となる女性なのか。
「散歩でもしていらしたの?」
「ええ、まあ」
彼女は悪戯っぽく笑って僕が持つ二人分のグラスをさした。僕は心の中でははっと思ったが表面ではにこやかに笑って首を横に振った。
「すみません。本当はお嬢様に会いに来たんです」
「まあ、本当? うれしいわ。けれど、お嬢様じゃなくてアンってお呼びになって。その代わり私もあなたのことをクリストファーと呼んでいいかしら?」
僕は頷き、グラスを一つ渡した。彼女は香りを嗅ぎ、口を付ける。
「まあ、おいしい」
僕たちは並んで晴れた夜空を見ていた。
「…あなたは無口なのね」
「え?」
アン・ティグニーは面白そうに言う。
「殿方殿は、女を口説くためにあの手この手で何も考えないまま口を開くのに」
彼女がまるでルパードと同じ言い方をするのに驚いた。
「ただの口下手です」
「将来の夫のことを考えるならぺちゃくちゃしゃべる九官鳥よりは無口な方がいいわ。それにあなたはとてもおきれいだし」
やっぱり、彼女は知っているのだ。そして彼女はあどけない顔のまま言う。
「私は将来の夫候補を見るため、ここに兄と共に来たの。もちろん最後に決めるのは父様だわ。でも、父様はあなたを気に入ってらっしゃる。だからあなたに言っておきたいの。…私ね、将来はただ家に閉じこもって子供を産んで育てるだけじゃなくて、本当は父様や兄様のような事業家になりたいの」
僕はその瞳に野心が光るのを見つけた。
「…それは本気ですか?」
「本気よ」
彼女の顔は厳しく、一気に大人びた。きっと彼女は思っている。世の中は女性に対して頭脳を持っているとは思っておらず子供を産み育てることしかできないと。しかし、そうではない。女性だって社会を動かす力はある。それを証明しよう、と。僕はもう一人、ズボンを履く女性を思い浮かべてふと笑う。
「私の夢がおかしいとお思いになる?」
「いいえ。女性が会社をして何が悪いかと少なくとも僕はそう思います」
僕の顔が嘘偽りではないと確認すると彼女は年相応の笑顔になる。
「うれしいわ。あなたの他にそう言ってくれる人はいなかった」
それから彼女は跳ねるように僕の頬にキスすると、ぱあっといなくなった。僕は何をするにも遅れ、ただ彼女が消えていった方をただ見ていた。結局、これでルパードが言っていた印象付けはこんなものかとおぼろげに理解したのだった。




