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逃亡者たち  作者: モーフィー
第二章 Noon
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36、過ぎ去った話


 それから僕らはただ森を歩いた。僕の何気ない話に彼女は笑い、そして蜜のような歌が流れる。ただ吸い込まれるような碧の瞳と踊るような髪が記憶に残る。彼女の甘い匂いに胸をときめかせ、そして彼女の機知に尊敬を抱く。まるで昔に戻ったようである。


 その一方でもう一人の自分がこれは夢だと思っていた。目を覚ますとこれはすべて終わり、無知な自分に戻るのだと。




 空が次第に朱色に染まる。僕は繋いでいた彼女の手を名残惜しげに放した。


「…シャイン、僕はもう行かないと」


 彼女は小首を傾げて小さく頷いた。それから微笑みを浮かべたままくるりと回り、森へと溶け込もうとした。思わず僕は声をかけた。


「シャイン!」


 すべてが何気ない動作であるが、それらすべてが、蕾が花開くようにしっとりと美しい。わずかに紅潮した顔で見つめられたおかげで僕はどぎまぎしたがそれを隠し、そして尋ねる。


「…また、明日も会えるかな?」


 黒い眉が優雅にあがる。


「ああ、きっと」


 それから彼女は身を翻し今度こそ森へと消えていき、後には彼女の残り香だけが漂っている。僕はしばらく彼女がきえた方に目を凝らしていたがやがてきびすを返しとぼとぼと帰った。


「あなたは僕を思い出す

 西の風がオオムギ畑を吹き抜けるときに

 ねたみ深く空から見下ろす太陽のことなど忘れてしまう

 黄金色の畑を二人で歩いていくのだから

 黄金色の畑を二人で歩いていくのだから…」




 それから毎日僕が胸を弾ませ森へ入ると彼女は待っていてくれた。


「クリストファー」


 僕は笑って彼女に駆け寄る。彼女もそれを見て微笑み返してくれた。その時の笑みは一日中見ておきたい笑顔なのだ。この時だけはいつもこの世のものとは思えない美貌が多くの光を取り込んで、慈愛に満ちるのだ。


「月が空を飛ぶ姿をごらん

 金色の帆を張って空の海原を進む

 手が届くほど近いところを

 でも気をつけて 手を伸ばすなら

 温かい金色に見えても

 月は無慈悲な夜の女王だから

 月はとても冷酷だから…」


 彼女はエルフの歌を歌う。黒い髪が時々翻り、白いうなじを光に晒す。僕たちの会話に言葉はいらなかった。踊る瞳が彼女の豊かな感情を表す。僕もそれに応える。


 しかし、彼女が見せる感情のすべてが喜びや安らぎではなかった。その瞳に時々よぎる影を僕は見た。それはすぐに隠れるが、一度深い傷を負った彼女を見つけ、これが本当の彼女の心を多く占める感情だと直感した。優雅に身体を風に任せ踊っているときでさえもその顔は時に苦痛に歪む。


 その反面、涙を浮かべる彼女を見ると彼女を抱きしめたくなる自分の感情にも戸惑う。彼女とは確かに友だちである。昔はまるで自分の一部であるよう思っていた。その感情は大人になった今、どう判別して良いか分からない。


 彼女は舞に彼女自身を任せゆるやかに踊り続ける。


 しかし、突然彼女は空中で目を見開き身体を硬直させる。思わず、矢に撃たれたのではないかと思ったほどだ。僕は慌ててその軽い体を受け止める。


 腕の中の彼女は静かに泣いていた。しかし僕の腕の中にいると知ると、そっと身を引く。


「シャイン…」


 彼女は無表情のまま涙を拭おうともせず泣いていた。僕が触れようとすると、警戒するよう身を引いた。その姿は久しぶり会った彼女の硬質な態度であった。喪服のような黒い服に顔を沈め、哀しみを押し殺そうとする。しかし、それは幼い彼女が時折見せた哀しみと同じであった。


「離れていた間何があったの?」


 僕は彼女に触れると、ハッとしたように濡れた瞳を上げる。


「見苦しいのを見せた」

「あなたは一体、何に涙を流しているの?」


 僕は一心に彼女を見つめる。揺れていた瞳が長いまつげに隠れる。その口元にはわずかな自嘲が浮かんだ。


「私がもっとも嫌うものに」


 彼女は重たげに口を開く。


「この四百年私を支配した孤独だよ。こうやって悩んでも仕方のないことだ。しかし残念なことにここ最近この痛みはひどくなってきてね」


 そして僕はハッと気がついた。エルフは生涯、伴侶と離れることがないと聞いた。僕と彼女が別れることの原因となったエルフ、彼女のパートナーであるグラナ・アキュベーはどうしたのだろうか。


「グラナ・アキュベーは…?」

「奴は自殺したよ」


 彼女はことなげに言った。豊かな黒髪に隠れてその表情は見えない。


「私が成長しても奴はずっと子どものままだった。奴は本当のパートナーではなかった。しかし、私たちの婚礼はすでに国中に知れ渡っていた。皆がうすうすおかしいと感じ始めたとき、グラナ・アキュベーの姿が見えなくなった。次の日には変わり果てた姿で発見されたよ。奴は誇り高かった。自分が間違ったことを認めたくなかったんだろう」


 彼女はきわめて無表情を装っていたが無意識かもしれないだろうが、強い感情によって手は強く服を握りしめ、指先は青く変色していた。


「エルフの中には配偶者を見つけられず大人になってしまう者がいる。何百年に一人ぐらい出てくるのだ。そのものたちは半端者と呼ばれ、他のエルフ達から離れて暮らして生きる。黒い衣を羽織って森の番となるのだ」

「しかし、あなたは王位継承者なのでしょう?」

「関係ない。私は半端者だ」


 その時思いもよらず僕は彼女を抱きしめた。記憶とは違うもっと柔らかい体つきに戸惑いつつも同じように心地よかった。彼女は一瞬身を固くしたが徐々に力が抜けていくのが分かる。彼女は手を背に回しこそしなかったが僕の腕にいた。


「僕はここにいる。昔と同じくあなたの仲間だ」

「…分かっている。あなたは昔から優しかった」


 違うと僕は首を振った。


「そうじゃなくて、僕があなたの…」


 そう言いかけて二人は硬直した。僕を見つめる碧の瞳は怯えている。僕がその言葉を口にするのが怖いのだ。グラナ・アキュベーとの破談。エルフと人間の間に存在する壁。女となった彼女の子どものような瞳がふせられた。


「ごめん…」


 彼女は何も言わずすっと立ち上がると既に無表情にと戻っていた。


「…あなたは石炭とやらを運ぶ通りが欲しいと言った。そこへと案内しよう。森の生き物たちに被害が少ないところを」

「え、ええ。感謝します」


 彼女は先に歩き、森の説明を行う。しかし、なぜかそれはさっぱり入ってこなかった。


"Fields of Gold" by Celtic woman

"the Moon's a Harsh Mistress" by Celtic woman

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