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逃亡者たち  作者: モーフィー
第二章 Noon
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35、失ったもの


 その晩僕はゆっくりと僕の古びた日記帳を開いた。インクはにじみ、表紙には燃やされた跡もあるが中はまだ読みとれた。


『6月14日。ロンドンから先生からいらっしゃった。明日が楽しみ』


 踊るような文字でそう記されていた。僕は夢中で読み返した。僕が忘れてしまった過去。それはとても興味深かった。そして過去を書き記した中でも多かったのは詩だった。今の僕が見れば笑ってしまうほど背伸びしたものだが、なぜかしらその中には子どもの真理が隠れ、ある物に至ってはハッとするほど心につく物があった。


 そして記憶のすっかり抜けた日が来た。僕は文字を読み上げる。


『黄金の海を歩いた。大地は時にあのような感動を与える。そして僕は塔で彼に会う。彼は、シャインはなんと、いや…』


 僕は飛び跳ねたインクの跡を見つけた。よほど興奮して書いたのだろう。

記憶は更に遡っていく。


『彼に会いに行く。彼は理知的でそれなのに感情豊かだ。そして何と美しい声で歌うのだろう…』

『彼と手をつなぐ。天にも昇るように幸福である』


 瞼に隠された記憶の渦が移り変わる。昔の彼女。幼さが残り、まるで少年のようだ。僕らは笑い合う。記憶の渦は次第に大きくなり、苦痛、哀しみ、愛を思い出す。


 すべてを思い出した僕はノートを閉じる。ここに書いてあることは俄には信じられないことだがしかし読むとすべて本当のことだと分かる。


 きっとそれは無意識下にしまわれていたのだ。そして彼女を見たとき、それはあふれ出した。あふれ出したものは予想以上に大きなうなりとなって僕をかき乱した。あの時大きくなった彼女を見て僕が抱いたのは哀愁なのか愛なのか。それを見極めるためにもぜひ彼女には会わなくてはいけない。




 次の朝、ルパードから渡された荷物と食料を背負って森へとはいる。奥へ進むに連れ空気は冷たくなり汗が引いていった。初夏というのにこの寒気は何なのだろうか。僕はあまり歓迎されていない。


 薄い葉のきらめき、小川のささやき、それらは次第に僕の記憶に触れ鮮やかに新たな記憶を思い起こす。人の手が付けられていない神秘。木々達は溢れる生命力を抑え切れぬように葉を伸ばす。


 森には大きな生命の流れが存在した。それに身をゆだね僕は歌う。


「エウロス、南東風の神よ

 そして世界は回り続ける

 周知の事実と共に

 人は言う

 あの遙か彼方に広がる空の色は

 カリビアン・ブルーだと…」


 その時、微かな音がした。さっと振り向くと、そこには予想通り黒い衣をまとった彼女が木に隠れるように立っていた。辺りには獣たちは見えず、彼女は一人いるようだ。彼女はやはり黒い布を被り、僕の方に顔を向けていた。


 しばらく僕たちは見つめ合っていた。何と言えばいいのか分からず僕は口を湿らせる。


「やあ」


 やっと出てきたのは、そんな的はずれの言葉。


「立ち去れと言ったはずだろう」


 くぐった声が響いた。僕は言い返す。


「どうして? 僕たちはまだ森を傷つけていないはずです」


 彼女は黙った。


「あなたたちは僕らがまた森を切り、畑にするのではないのかと思っているのでしょう。違う?」


 彼女はまだ黙っている。僕は勝機ありと見て、更に言い募る。


「僕らがこの森に入ることを諦めても、また新しく人間がやってくるでしょう。お互い勘違いのまま攻防を続けるのは双方にとって無益だと思う。だから僕はあなたに僕たちのことをもっと知って欲しくてやってきた。…あなたたちのことも」


 彼女はそっと手を首に回す。その不自然な動きに僕は思わず腰の銃の存在を確認したが、その瞬間、彼女の頭を覆っていた黒い布がとられ、豊かな黒髪が色白の頬になびく。猫のような瞳がこちらを直視していた。僕は思わず恥ずかしくなり瞬きを繰り返した。布をとった瞬間僕がどんな顔をしたのか見られたくなかった。


「互いを知る?」

「…ええ、あなたは昔僕にいろいろなことを教えてくれました。そのおかげで僕はエルフに対して偏見を持つことはなかった。エルフの歌は僕を魅了した」


 そこで僕は無表情に立つ彼女を見た。


「僕たちだってもう大人だ。無理に相手に自分を知れと強要はしません。けれど、考えて欲しい。何が僕たちの未来に最良か。僕たちの友情にかけて真実を言います。どうか、僕の話を聞いてくれないでしょうか?」

「…あなたはすべてを思い出したのか?」

「すべてとは言えませんが」


 彼女の面のような無表情が微かに揺らぐ。碧の瞳の中で激しい感情の葛藤が見られる。僕はおそるおそる近づく。彼女ははっとして立ち去ろうとするが、ギリギリの所で立ち止まっているようだ。僕は小動物を脅かさないようにするよう立ち止まりそっと手を差し伸べた。


「…シャイン」


 彼女の瞳は揺れる。熟れた唇が喘ぐように震える。僕は彼女が怯えて逃げ出さないよう一歩一歩近づいていった。そして、その無骨に彼女を包む黒い布越しに彼女の手に触れる。


 彼女はそっと僕を見上げた。その美しい顔立ちは優雅な曲線で描かれ触れれば細い骨が感じ取れるだろう。思わずその繊細さに戸惑った。確かに昔の『彼』だった時も細い体つきであったが、こう成長した今ではしっかり固まるはずの体つきも彼女は柔らかさを保っている。それはお互いに異なる性のおかげだと気づく。男の僕はがっしりと大きく、女の彼女は柔らかくなだらかに。僕は思わず大人の香りを嗅ごうとし、顔をしかめた。


「…クリストファー」


 低く滑らかな空気の振動は僕の胸に眠っていた鳥を、僕の性に対する違和感と別に呼び起こした。すっかり成長した鳥は両脚でしっかり立ち確かな目で彼女を見つける。そして子どもの感情であったこの違和感を難なく平らげ、成長した彼女を見つけた事による歓喜の声を上げた。大きな翼が巻き起こした風は僕の胸を熱くかき乱していく。目の奥が熱くなり息が出来なくなる。ずっと眠っていた感情が割れる。この思いは…。思わず込み上げた強い衝動をこらえなければいけなかった。


「クリストファー…大丈夫だろうか」

「ええ…」


 僕はもう一度彼女を見る。昔彼女に抱いていた思い、そして新たに込み上げたものを両方とも受け入れて、そして僕は子どもに戻ったように笑う。悪戯を共謀した仲間のように。彼女に会えた喜びが改めて流れる。僕はゆっくりと彼女から手を離し、代わりにその手を差し出す。


「シャイン、覚えている? 先に大人になってしまったら抜けた歯に捧げる歌か詩を捧げなければならない」


 僕と彼女との記憶。それだけが今の僕たちを繋げている。しかし、隣の彼女は目を見はっていたがやがて面白そうに笑いだした。そしてゆっくりと手を差し出して僕の手につなぐ。


「そうだった。随分と忘れていたな」


"Carribian Blue" by Enya

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