32、戦い
「全くおまえはどこに行っていたんだ」
「ちょっと、確かめに行っていたんだ」
彼は眉をひそめながら一丁の銃を渡した。さっきルパードが用いた銃より威力の大きい物だ。これを使えば大型の獣でも殺すことが出来る。
「怖くなったのか? それでもいいぞ。そうなれば終わった後のご婦人の人気はすべてオレの物だ」
「そんなことあるもんか」
僕らは笑い合った。さあ、これからエルフ退治だ!
鬱蒼と緑が茂る森に入った僕らは道無き道を進む。
「作戦はない。ただ、獣が通った道をたどって奴らを見つけたら儲け物。襲いかかってきても向かい撃つだけだ」
ルパードのさばさばした言葉に皆頷いた。それから歩いて数時間になる。夏も近いこの季節、ひどく熱くて汗が噴き出す。やはり、ここで歩き慣れた者は僕たちよりは楽そうであった。それでも威信がかかっている今、手を抜くわけにはいかない。
奥に進むにつれ、木々は高さを増していき、僕らを覆い被さるように立ちはだかる。信心深い現地の者はもとよりルパードでさえも気味が悪いと漏らす。
「本当にエルフが住んでいそうな森だな」
僕はと言うと、このような景色がどうにも記憶に引っかかって仕方がなかった。先ほどのエルフといい、こんな森といい僕は一体何をしたんだ? そのとき、一瞬、ほんの一瞬だが鈴を鳴らしたような笑い声が森に響いた。
「聞こえたか?」
彼らは不思議そうに僕を見る。
「葉の鳴る音ならずっと聞こえているぞ」
僕は説明を重ねようとして、止めた。僕の幻聴だったかもしれない。辺りにはまだまだ成長の徴がある薄緑の葉を豊かにまとった木々だけ。遠くではこの豊かな土地を示すかのように小川の流れが聞こえている。しかし僕はそれが人間を惑わせるための罠だと思った。なぜならそこには動物の姿が、小鳥一つの姿さえ見受けられなかったからだ。僕らはここから疎まれている。
「あ!」
一人が叫び、咄嗟に黒い影を撃つ。しかし、しとめた様子はなかった。銃声だけが不気味に響く。急に僕らの周りの気温が下がっていく気がした。荒い息だけが頼りの仲間だ。僕らは追いつめられていることを気配で感じた。近くで狼の遠吠えが響き、爪をかく音が聞こえる。僕の隣は恐怖で歯をならした中年の男だ。
昼でも薄暗い森の中で、茂みの中、獣の目だけが光る。僕らも銃を構える。
「これはちと、長い戦いになりそうだな」
僕の背後を守るような形のルパードも真剣な声だ。僕は姿を現し始めた獣たちを見て、死の危険を感じ始めた。
(ああ、本当に死ぬのだな…)
茂みから明らかに獣とは違う影が現れた。
「…人?」
全身を黒い布で包み、肌が全く見えない。彼は人間とは違う軽やかな足取りである。最初は昔僕を悩ましてきたあの幻覚かと思ったが他の者にも見えているようだ。
「本当にエルフか…」
彼らはジリジリと間合いを詰め始める。その時、ルパードが言う。
「おい、みんな。噂が本当なら獣の親はエルフなんだろう。だったら、あいつを倒せればオレらは生きて帰れるんじゃないか?」
僕らは微かな願いにすがる。黒い人影を筆頭に獣たちは音もなく間合いを詰めていく。
「いくぞ…3,」
足に傷跡を持つ男が息を吸い込む。
「2…」
彼らは動かない。ただ僕たちを待つのみだ。ぴくりと指が動く。
「1!」
僕たちは閃いたように銃を撃った。途端に獣たちは牙を剥きだして襲いかかってくる。
「うおおお!」
僕らは撃って撃って撃ちまくった。ある弾ははずれ、ある弾は獣たちに当たった。しかし、僕らはきわめて黒い人影を狙ったはずなのになぜか一発も当たらなかった。いや、獣たちが自らの身を盾にしてでも彼を守っているのだ。
「あいつを狙え!」
それでも僕たちはちりぢりになり、ある者は逃げだし、ある者は頭から喰われた。嵐のような銃撃の音が止み、その場に残っているのは僕だけとなっていた。ハッと気がついたときには足は獣に噛まれ出血していた。
獣の荒い鼻息に囲まれ、僕は後退しようにも出来なかった。無性に涙がこぼれる。そして目の前に立った人物に気づいた。涼しげな空気をまとった黒い衣を纏った人影だ。涎をたらし今にも襲いかかろうとしよう獣たちに待てと指示を与える。
彼は静かに小刀を抜いた。細い刃に光が宿る。やがて刃は血に染まるだろう。その事実に僕は笑えてきた。何だろうこの笑いは。どこも面白くないのに。こんな惨めな姿で終わるなんて、ついてないや。いいや、これも人生だ。勝者成る者の土台は数多くの犠牲で成り立っている。その一人に僕が成るなんて…。この短い人生で僕は何をやったのだろうか? しかし思い出してみても人生に誇れるような事は何もない。だったら、失った記憶はどうだろうか? この森とそしてくだらないエルフとの中に何か残っているだろうか。
ふと、黒い髪が横切る。僕の記憶にいるのは誰? その人物は止まり、そしてゆっくりとゆっくりと振り返る。
美しい碧の目。そしてすべてを優美な線で描いた顔。
僕は思わず息を止めた。そうだった、僕は大事なことを忘れていた。本当に大事なことを。彼の名は…。
「…シャイン」
今にも刀を振り下ろそうとしている手が止まる。僕は周囲に響く荒い呼吸音がいつまでも聞こえるのに驚いた。薄く目を開けると血の混ざった汗が目に染みた。生きている印だ。黒い手が近づき、僕の前にかかった髪を払いのける。彼は瞳があるところさえも黒い布で覆い僕には彼が本当に見えているのかさえ分からなかったが、黒い影は僕の顔を見て動きを止める。僕らはじっと見つめる。何者なんだ? 僕をどうするつもりなんだ?
彼は優雅に立ち上がり後ろに控えていた獣たちに短く指示を出した。獣たちはじりじりと僕に迫ってくる。ああ、今度こそ僕は食べられるんだ。夢の中の彼はそっと近づいて僕の手を取る。その白い肌は大理石のような冷たさを予想していたのに温かかった。僕は圧倒的な恐怖の中のその温かさに包まれながら気を失った。




