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逃亡者たち  作者: モーフィー
第二章 Noon
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28、麦畑の影

 春の穏やかな日々はあっという間に過ぎていく。日光が鋭くなる兆しが見えたとき、銀行での借り入れがすみ、ルパードは言った。


「これで、オレたちが机でやることは全部終わった。来週から現地に行く。これが地図だ」


 のびをしながら受け取った僕は思わず見直す。村の名前をなぜ、知らなかったのか疑問である。そこは僕が昔母と二人で奉公に向かった村であった。そして、記憶の空白がその村でのほとんどを占めている。そこに再び戻ろうとは…


「わお…」

「どうしたんだ?」

「昔、ここに出稼ぎに出ていたんだ。そこに再び戻ろうとは。農場の主の名前は?」

「オーウェン・ゴードンだ。知っているか?」

「ゴードン…。間違いない」


 僕はその時驚くより先に、運命といえる物を感じていた。何か、誰か大切な物が僕を待っている。それは無くした記憶の中に埋まっているものかもしれない。


「これは、楽しみだな」

「なんだ、今は落ちこぼれてしまった元主人をからかいに行くのがそんなに楽しみなのか? 心の狭い奴だな」


 ルパードは茶化していった。春の柔らかい風が彼の赤毛をゆらす。僕は苦笑した。


「違うよ。あちらの記憶が僕にはほとんどないんだ。何か大切な物だった気がするのに…」

「なんだ、その気がするとは。忘れているだったら覚えても意味がない日々だったんだろう」


 僕はそれを大きく言うのもはばかられるような気がして照れるように言った。


「僕はそこで一度記憶喪失になっているんだ。素晴らしい物に…一生を捧げられるぐらいの幸福を見つけたような気がする。だから、もう一度戻ると言うことはそれをもう一度発見するためなんだよ」


 時折、夢で見られる人影。ふとしたときに嗅ぐ甘い香り。閉じこめる繭に一度ひびを入れるとすべては溢れる。


「何だかな。おまえが記憶喪失だなんて初めて知ったよ。道理で変わった空気がするわけだ」


 今度は僕が不思議に思う番だった。

「どういうことだ?」

「何でもないさ。この機会なんだから存分にその失った記憶とやらを探したらどうだ? ただし、やるべき事はやってもらうぞ」

「ああ」


 あまり、村にいい記憶を持たない母にこのことを言わずに僕たちは今度の事業のために新しく仕立てたスーツに身を包み、出発した。


 村に向かって行くに連れ、家が少なくなっていくのを感じて、懐かしい風景に驚かされることがたびたびあった。飽きずに窓の外を眺める僕にルパードが声をかけてきた。


「よく飽きないな、おまえも」


 彼は馬車の長旅にしびれを切らしたようでいつもなら綺麗に櫛が入った赤毛もぼさぼさであった。目の下にクマを作り、馬車の揺れによる始終尻の痛みを訴えていた。


「僕は好きだな」

「俺は一刻も早く綺麗に踏みならされた道が造られて欲しいね。こんなでこぼこ道だと敵わない。輸出が伸ばせそうならこちらの整備も考えなくてはな…」


 そう呟くルパードを後目に僕は再び風景に視線を移す。広がる景色は前から小麦畑に変わっていた。まだ丈の短く青々としていてそこに身を投げたら気持ちいいだろうと窺わせる。春風に身を翻す苗達を僕は海のようだと思った。


 未だ色気に欠けるが風に踊る姿は将来の兆しを窺わせる。僕はふと、あの香りを嗅いだ。夢から漏れてきた甘い香り。隠された過去の香り。何かが胸の中で動く。僕は無意識にたっぷりとした外の空気の中に手を付けてかき回す。


「――そして世界間回り続ける、周知の事実と共に…」


 春風はそれに反応したかのように僕の髪をなぶる。


「エウロス、南東風の神よ

 そして世界は回り続ける

 周知の事実と共に

 人は言う

 あの遙か彼方に広がる空の色は

 カリビアン・ブルーだと…」


 そして僕ははっとして麦畑に人影を見つける。単調な車輪の音が続く中、小柄な人影が麦畑の中で敏捷に走っている。そして、人影は長いまつげを上げてその輝く碧の目で僕を直視する。なんとも官能的で危険な瞳なのだろう…。僕は手を伸ばそうとした。


「おい、クリストファー!」


 突然、見ていた幻想が消える。麦畑には誰もいない。ただ、さやさやと葉がこすり合っている音だけである。


「どうしたんだ」


 目の前にいるのはルパード。現実だ。僕は目をしばたいた。何も答えずにいる僕に彼は言う。


「いきなり、何か呟きだしてよ。何かあったのか?」

「いや、何でもないさ」


 目を強くつぶると瞼にあの魔性の瞳が浮かんできた。僕は慌てて現実へ戻ろうとカッと目を見開いた。


「…ただの夢さ」


 独り言のつもりだったが、ルパードは納得して帽子を傾けて再び眠り始めた。まだ波打つ心臓を意識しながら僕は麦畑の中にポツンとそびえ立つ展望台を見つけた。もうすぐ村に到着する。


"Carribian blue" by Enya

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