2、新しい暮らし
次の朝、僕は冷たい空気の中目覚めた。母は既に衣服を整えていた。母が用意してくれた粗末な服に急いで着替え、ドアをそっと開けると、都会では見られない光景が広がっていた。
太陽はまだほんの少し顔をのぞかせただけでほんのり薄暗い中、目の前の小麦の畑は一つ一つが艶やかに光を乱射して滑らかに繋がるうねりを作っていた。それが風に晒されるたびに大きな波となる。僕は思わず声を挙げてしまった。
「きれい…」
「本当ね」
都会では決してみられない風景だった。麦達一つ一つは不完全だが、それが合わさることによってすべてを凌駕する渦巻きとなり、人の心をかき乱す。
母は思わず立ちつくしていた僕の髪を撫でた。少し恥ずかしかったけれど、嫌ではなかった。
「クリストファー、そろそろ行かないと」
「うん」
母は頭にキスして立ち去っていった。一人残された僕はしばらくぼんやりとしていたがやらなくてはいけないことを思い出し、重い足を動かした。
馬小屋の前では一人の少年が僕を待っていた。短く刈り込まれた黒い髪を持ち、顔をしかめている。僕より年下のように見えたが身長は僕よりも高く、腕っ節も強そうだった。途方に暮れていた僕に少年は顔を硬くしたまま尋ねた。
「あんたが昨日、ここに来た奴か?」
「うん」
僕は心臓がドキドキするのを抑えて、彼に笑いかけた。けれど彼はバカにしたように鼻で笑っただけだった。そして無言でついて来いと合図して歩き出した。その時点で僕は回れ右をして帰りたかったが、仕方がないので彼にすごすごとついていった。
「おまえの仕事を教えてやる」
彼はそう言って厨房の裏の方へ僕を誘導した。薄暗く残飯の匂いが漂う、人の通らない道へとはいる。
その時、僕は何も免疫がなかったので素直に彼に従ったものだが、本来ならここで疑いを生じるべきだった。何名か少年が出てきて僕を囲んだときには既に遅かった。どんと強く胸を押され、壁に押しつけられ髪を掻き上げられた。鋭く、悪意の含まれた視線に睨まれ、僕の心臓は縮み上がる。
「へ、どうりで女達が騒いだわけだ。まるで女みたいな綺麗な顔だな。しかも、ストレートの金髪とくる」
クスクスと笑い声が聞こえ、僕は腕をねじり上げられた。思わず声を出すと、ますます強くねじられる。
「なんだ、痛いのかよ。この坊ちゃんが。わざわざ町から出稼ぎに来たらしいなあ。そんなに金が稼ぎたいのか。おまえが女だったらオレが買ってもいいのによ」
下品な笑い声が聞こえ、腕を捕まえているリーダー格の少年は僕に息を吹きかけた。腐った肉のような匂いに思わず顔を背ける。そこに唾を吐きかけられる。
「調子に乗るんじゃねえ」
一人の少年が殴ろうと手を振り上げたとき、僕はようやく言った。
「やめて」
喉から絞り出した女々しい言葉。そのひ弱な言葉は彼らを逆上させるものだったに違いない。目をぎらぎらさせて壁から引きずり下ろされる。
「なんだ。その綺麗な経歴にそんなに傷を付けて欲しくないのか」
「それがむかつくんだ」
「それともあれか? おまえの大好きなママか?」
少年達は笑い出した。
「美人だったよな。おまえら実は親子でアベックなのか?」
僕は屈辱で目の前が真っ赤になった。ひとしきり彼らは笑った後、ぽいっと放した。
「今日中に馬小屋をピカピカになるまで掃いておけ。そうじゃないと今夜は飯抜きだぞ。せいぜいがんばれよ」
彼らから何と言われて、どれほどショックを受けたとしても仕事はこなさなくてはいけなかった。
僕は馬小屋の隅に置かれていた小さな箒を使って広い馬小屋を掃き始めた。老人の馬屋番がいて、彼は優しく指導してくれたがお昼前になっても掃除がそうはかどったと言えなかった。
お昼になり老人がご飯を食べに行ったときも僕は一人、床を掃いていた。馬は常に草を食べ散らかし、掃いた側から汚していたからだ。これじゃあ、いつまでたっても終わるわけない。僕がイライラしながら都会の暮らしを思っていたとき、軽やかなブーツの音が響き、一人の少女が入ってきた。彼女はまっすぐ馬の陰に隠れた僕の元へ駆け寄った。
「ブレンダー、馬を用意して頂戴。散歩しに行くわ。…あら」
僕は少女と同じように驚いた。黒い筋の見える金髪をお団子に結い、頬が明るい、かわいらしい少女だ。きっと、僕と同じか年上ぐらいだろう。笑顔から彼女が自信にあふれた少女だとわかる。乗馬用の上等な服を身につけており、農場の主の娘だろうと思われる。僕は慌てて頭を下げた。
「あ、あの、ブレンダーさんは今ご飯を食べているのでいません。あ、あの、僕は昨日来たばかりなの
で馬の扱いは知らないので、お待ちいただいてかまいませんか?」
少女にじっと、見つめられて居心地悪かったのだが、何とかそう言いきった。
「え、ああ。別に構わないわ。私一人でもできるし。ブレンダーだと早く準備してくれるのよ」
「すみません…」
それから、僕は掃除を再開した。彼女は自分で横鞍を取り出して取り付け始めた。僕は彼女を意識しても何を話したらいいか分からず、会話のないままだった。彼女は鞍を確認し、馬の上にひらりとまたがった。
「知っているかもしれないけれど、私はシャロンよ。シャロン・ゴードン。ここの主人の娘。あなた、名前は何というのかしら」
「え?」
自分でも間抜けなことに変な声が出た。彼女は気まずそうだった。少し顔をしかめ、顔を赤くしている。
「名前よ」
「クリストファー。クリストファー・ワイズです」
「そう…。それじゃあまた」
彼女は一瞬僕にほほえみかけ、馬で駆け去った。僕はどういうことなのか訳も分からず、彼女が去った方向をただ見つめるだけだった。
秋の日暮れは早い。それにつれて一段と寒くなってくる。僕はようやく馬小屋の掃除をおえ、食事に急いだ。身体があちらこちらきしんで痛い。薄暗い路地を急いで駆けているとき、黒い影がさした。
「おお、坊ちゃんは本当に掃除を終えたのかな?」
のそりと現れたのは今朝の少年達だった。にやにやと笑いながらこちらを見ている。回れ右をして逃げ出そうとしたその時、襟を捕まれた。抵抗する間もなく朝と同じように壁に押しつけられる。何かされると目をつぶったとき、向こうから声が聞こえてきた。
「クリストファー・ワイズ。クリストファー・ワイズはいるか?」
「はい、僕です!」
少年達は声がする方と僕を交互に見つめ、のろのろと手を下ろした。それからお互い目を見合わせると、毒づきながら去っていった。
角から出てきた使用人らしき男は僕を見つけると言った。
「シャロンお嬢様がおまえを夕食に招きたいという。すぐに服を改めて母屋の入り口で待つように」
僕は不思議に思いながらも母の待つ小屋へ急いで戻った。与えられた粗末な小屋のドアを開けると、母は小さな暖炉に手をかざし、疲れたように椅子に腰掛けていたが、僕を見ると微笑んだ。
「おかえり。どうだったかしら?」
「別に。大したことはなかった」
そう言って、捕まれた胸倉を何気なく直した。
「母さんは? どうだったの」
母はにっこりと笑った。
「私も。大したことはないわ。そう、あなたを待っていたのよ。ご飯はまだでしょう」
「それがね、お嬢様が今日僕を夕食に誘ってくださったんだ。母さんも一緒に食べられるか聞いてみるよ」
「いいえ、私は結構よ。お嬢様は何かあなたに用があって呼んだんですもの。私は行く理由がないわ。楽しんでらっしゃいよ。そうね、お嬢様に会うのだから、そんな服じゃ失礼ね。まあ、どうしようかしら。上等な服はおいてきてしまったわ」
そう言って、小さなクローゼットを探し始めた。
「理由なんかきっとないよ。お嬢様とは馬小屋で初めて会って少し喋ったぐらいだもの。それに馬のことならブレンダーさんの方が詳しいし。ねえ、なんだと思う?」
「さあ、ね。楽しんでらっしゃい」
一番ヨレヨレしていないシャツが渡され、それに腕を通す。
「僕、何話せばいいんだろう。女の子と話すなんて」
「趣味とか、何でも。あなたはもっと女の子としゃべれるようになるべきよ」
そう言って、僕を鏡の前に立たせた。男にしては長めの髪。切ろうと思って忘れていた結果だ。髪のかかる目は母と同じ青色。その他に青白くて、細くて女みたい。うつむいた僕に、縁無しの帽子が被された。
「大丈夫よ。あなたなら」
進みが遅くてすみません・・・
もう少しでやっと! たぶん