25、抱擁
次に目覚めたのは薄暗い木の小屋であった。頭上で彼女は優しく僕を見ていた。
「…ここは?」
「人間の家だ」
よくよく見てみると、奉公先の使われなくなった馬小屋ではないか。
「…あなたには本当に迷惑をかけた。私のためにこんな目にあって。だから、これからはあなた自身の人生を歩んで欲しい」
「…そんな、こと。僕はあなたと共に。約束したじゃないか」
一緒に旅をして世界中を回る。
「約束は破られた。私は彼によって女にさせられてしまった」
彼女は長いまつげをふせた。頬には幼い線があるが、既に将来の兆しを匂わせる。子どもの殻が割れた徴だった。彼女は愁いを含め僕を見つめた。碧の瞳が僕を惑わす。
思わず僕は彼女の頬に指を伸ばした。薄暗がりの中で涙が光る。お互い知らぬ間に近づき、抱擁を交わした。僕は彼女の細い背中を抱きながら甘い香りを嗅ぐ。
「一緒に逃げればいい。あなたが女になったって僕は構わない」
彼女は目頭を僕の喉元に押しつけた。僕はそっと、大理石のような肌に触れ、顔を上げさせた。そして、彼女を他の誰にも奪われたくなくて、大人達がやるようそっと彼女に口づけた。彼女は一瞬驚いたように唇を離したが、やがて碧の目を閉じ僕を受け入れた。
彼女の唇は熱をはらんでいて涙の味がした。大人になったってかまわない。僕は彼女とずっといたい。僕はずっとこの味を知りたかったのだと分かった。
人間とエルフの塀を越えて…。心の中の雛が起こした風に煽られて僕はどんなことがあろうとも彼女といたいと思った。彼女は僕の熱情である。
その時、僕は雛の存在が何であるかに気づいた。これは彼女への愛なのだ。ずっとずっと、彼女に会うたびに雛はうずいた。これが恋なのだ。
「シャイン…」
ずっと近い位置にある彼女の顔は例えようもなく美しかった。その顔が愁いをたたえてこちらを見つめている。
「僕は、あなたを愛している」
突然の告白に彼女は少し驚いた顔をした。
「ずっと、気づかなかった。けれど初めて出会ったときからそうだったんだ。僕はあなたが好きだ」
「クリストファー…」
「もしあなたもそうならば僕はあなたのために死んでも構わない」
心からそう思った。
「私は…」
音もなく涙をのんだ。しかし、彼女は再び唇近づけた僕を拒んだ。無骨に響いた床の音が二人の距離を切り裂く。
「クリストファー…あなたは伴侶ではない」
彼女に触れていた手が行き場を失う。
「あなたは人間で私はエルフ。そして、私の相手はグラナ・アキュベーだけ。エルフの伴侶の絆は呪いだ。それを破れるものは決してない」
「そん、な」
重心を失った身体は倒れ込む。涙を押し隠して彼女は呟く。
「…だから、私を忘れて」
目の前が真っ白になる。ようやく飛び立とうとした雛の心臓に深々と矢が刺さる。
「…あなたは私が捕まえてしまった自由な鳥だった。私を自由にしてくれる。ただそれだけのこと。だから、すべてが終わってしまえばこれまであったことを忘れて帰ってしまう。あなたにとって幸せはまだこれから」
違う、そう僕は叫びたかった。
彼女の舌が鋭い音を出す。それは脳の機能を一時停止させる作用がある。
記憶がフラッシュバックする。火花のように過去が甦ってくる。
彼女との口づけの味。
ベッドでの熱を孕んだひととき。
一緒に笑い合った日々。共に詩や歌を披露しあった。
そして初めて会ったときのあの興奮。すべてが今までにないほどの幸せであった。意識が混沌の奥底に沈み込む前に、彼女の顔を脳の奥底に刻み込む。その強烈な緑の瞳。そして僕は気を失った。
何が起こったのだろう
僕はどうなるのだろう
何もかも思い出せない
「…お、おい、ぼうず!」
寒い。身体が麻痺したように動かない。やっとの事で開けた滲んだ視界に人影が映る。
「まだ生きているぞ!」
「人を呼べ!」
そっとしてくれ。僕はこのまま眠りたい。このまま空気となってしまいたい。集中していた意識が再び拡散しようとしたとき、熱い手で思い切り揺さぶられた。
「今から、おまえの母さんが来るんだ。おまえさんがいなくなったときそりゃ、心配していて、結局春まで待とうと。あんな美人だったのにおまえがいなくなったときには…」
母さん? そうか、僕には母がいたのだ。母と一緒に出稼ぎにやってきた。
脳が自動再生していき記憶をバックアップしていこうとする。秋だった。
黄金の海。雨。温かく燃える暖炉。
横切ったのは誰?
ああ、どうしても思い出せない。頭が痛い。
僕は欠けてしまった記憶を探そうと立ち上がろうとした。
「無理するんじゃない。おまえさんは凍傷の危険性がある」
誰、誰?
僕の記憶を消し去ったのは。頭がかっとなり、目から熱い涙があふれ出した。今まで知らなかった不思議な感情が孵りそれは哀しみのために羽ばたき鳴く。
戸口でバタバタと音がして、明るいブロンドを露わにした女性が突進するようにやってきた。
「クリストファー、クリストファー!」
真っ青の目だけを光らせて母は僕を見るなり抱きしめた。細い首筋に目頭を押さえつけ声にならない叫びを上げて泣く。骨張った手が力一杯に僕を抱きしめ、また僕も泣く。哀しみで、安堵で。冷たい世界で無力さを嘆いて。
僕らは春先まで雪が溶けるのを待つことになった。
どこに行っていたのか? 誘拐されていたのか? そして何があったのか? すべて僕は答えきれなかった。
消えてしまった。すべて空っぽに。母の優しい瞳を見つめても何も戻ってこない。残っていたのは埋められない空虚と死にたくなるような喪失感だった。
母は僕がいない日に神経をすり減らしたようで時々ヒステリックになったが、それも時を重ねる事に以前の穏やかな美しい姿へと戻っていった。僕もまた同じような日々の中に戻った。どこかなじめないけど本来の世界。欠けた記憶は戻ってこなかった。
それは心を支えていた大きな樹を抜いたように残った後はひどく頼りなく不安定だった。黒い影が横切るたびに僕は恐怖でおののき、また期待に満ちあふれた。それは日を重ねる事に大きくなっていった。ある時、冷や汗を流しながらうずくまる僕に母は尋ねる。どこか痛いの? 僕は拒絶して首を振る。母には分からない。日に日に夢の中で大きくなる人物の存在を。
一章終了




