19、疑惑
彼が出ていく。
部屋には彼のさわやかな香りが残った。止まり木では鳥が頭をかいていた。僕が何もしようとせずただベッドに座ったのを見ると、鳥はどこからか僕のノートを取ってきて膝の上に落とすと、期待するような目で僕を見つめた。
「読んで欲しいと言うこと?」
そう言えばこの鳥は詩が好きだと言うことを彼が言っていたような気がする。鳥はくりくりと目を動かしながら待っている。僕はノートを適当に開いた。そして一つの詩を読み上げる。
「天国に木霊するささやき声
天使の歌が響き渡る
光のしらべは闇を追い払い
高らかな声はこう告げる
決して独りではないと…」
僕はチラリとワイズダムを見た。鳥はなんだか幸せそうに目をつぶってウトウトしている。だがまだ眠っていないようだ。
「天使の歌が嵐の音にかき消されて
ささやき声が洪水に押し流されても
希望のメッセージは消えることはない
木霊は決して朽ちることはない
決して独りではないと…」
最後に読み上げたとき、賢鳥は目を閉じて完全に寝ていた。僕はため息をついて手に持ったノートをベッドの上に放り投げた。
瞬きするたびに目の裏で彼の姿がちらつく。胸の中で大人しく眠っていた雛が動き出す。僕は立ち上がり、投げ出した帽子を深く被る。身体が少しふらふらしたが、少し目をつぶると治った。静かにドアを開けて鳥が起き出さないことを確かめると僕は木の上に建てられた家を後にした。
薄暗くなり始めた空は微かにオレンジ色に染まっている。エルフ達は皆夢心地で美しく変わり行く空を見上げている。コートの端を合わせて寒さが身に染みないようにする。その中で独り、木に腰掛けて横笛を吹いた若きエルフに声をかける。
「すみません、スラナの大広間はどこにありますか?」
彼は長いまつげをパチパチさせ優雅な手を挙げて、方向を指した。
「ありがとうございます」
彼は老人のようにすべて心得た笑みを浮かべて再び笛を朗々と鳴らし始めた。地平線におぼれていく太陽を背景に相応しい甘い音色が流れる。
「こんばんは、友よ」
道行くエルフに声をかけられ、それに返事を返しながら、僕は指された方向へ急ぐ。胸の奥から込み上げてくるこの感情はほとんど義務と言っても良かった。
スラナの大広間とは桃色の大理石で建った格式ある建物だった。優雅に反ったアーチには茂った野生のバラが巻き付いている。そこを長い衣をまとったエルフがゆらゆらと陽炎のように行き来している。僕は何も呼び止められないことに感謝して広間に足を踏み入れた。
建物の中心には中庭があった。エルフが心を砕いて作った橋が穏やかな川の上に架かっている。そして驚くことに天井は樹齢何千年もするだろう木々が幻想的に枝を伸ばしてその役目を果たしていた。葉の間からこぼれるわずかな紅い火と、何千と灯されたランタン。優美な人影と相まって夢のようでもあった。
そして僕は橋の上に彼が立っているのを見つけた。彼は手をもてあますように近くに生えたバラをいじっている。そんな彼は隣の知らないエルフと語っているようだ。そのエルフも中性的な容貌であるが、遠目から見ても利発そうな瞳に柔らかなブラウンの髪がよく似合う美しいエルフだった。僕は建物の影から彼らをじっと見つめているしかなかった。感情のままここに来たのは良いが、何をするかなんて考えていない。
彼らは語り自然に笑っていた。その姿は彼が嫌がっていた恋人のような仕草だった。彼は猫のように滑らかに先を歩き、相手のエルフは後ろから優雅についていく。お似合いの二人であった。バラのように孤高に立っていた彼だって後ろを歩くエルフが伴侶であったら、しっかりと大地に根を張れるのではないか。
そう思った瞬間、僕の心臓は氷の手で捕まれたように縮んだ。
彼の気持ちが分からない。
見ていられず、むつまじく見える二人に背を向け、急いでこの場から離れようと走った。
周りの景色が次第に色を失っていく。彼と繋がっていた気持ちが細くなっていくにつれ、景色は異様な物へと変わっていった。道行くエルフも人とは違ったつり上がった目や尖った耳などが強調されて見える。
エルフ達は火の残光の元駆ける僕を不思議そうに見ていた。彼らは人間を嫌う。もし、頭に被った帽子が脱げ、丸い形の耳が露わになったら、彼らは僕を襲うだろう。細い身体は変形して、まるで獣のように。そして、美しい言葉しか出てこない口からは悪魔のような悪口、そして異臭の放つ唾。ああ、きっとそうだ。暗くなったら何も見えない僕を襲ってくる。
僕は木の上の家に駆け込み、床に倒れ込んだ。大きな音に驚いて、眠っていたワイズダムが空中に舞い上がる。冷たい汗が背中をつたう。急に息が出来なくなり咳き込んでしまう。慌てたように鳥が降りてくる。
「だいじょうぶ…大丈夫です」
急激な目眩がやってきて視界は真っ暗になる。鳥の羽ばたく音が聞こえ、目の前は暗くなった。
Song by Libera




