前夜の夢
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久しぶりにゆっくりと夕食を取った後、ここ二週間の睡眠不足から再び強烈な睡魔に襲われた早苗は、まだ少し早い時間ではあったが手早く入浴を済ませ、早々にベッドに潜り込む。
王宮では王族の部屋には浴室があるが、それ以外の者は浴場を使用する。使用できる浴場も身分によって違うので、王宮内には実に十以上の浴場が存在する。その中には王族専用の浴場もあるそうだ。
早苗が初めてそれを知った時、何故風呂がそんなにあるんだと思ったのだが、入浴できるのはいいことだと思い直し、有り難く浴場を利用させてもらっている。
街にも日本で言う銭湯の様な施設があるそうで、家に浴室があるのは上級貴族の屋敷か、大商人の屋敷くらいらしい。古代ローマの公衆浴場に近いのかと思っていたのだが、真理に尋ねた所力強く“あれは銭湯よ”と返された。
地方に行けばまた少し違っており、場所によっては温泉もあるそうだ。
ともかく、食事と衛生面での不安やストレスが殆どないのが何より有り難かった。
ベッドに入ってすぐに深い眠りへと落ちていった気がしたのだが。
「ここどこさ……」
何も無い、真っ黒い空間。そこに漂っている感覚だ。地に足が付かない感覚なのに特に恐怖心も不安感もないので、恐らくは夢を見ているのだろう。
「寧ろ夢じゃないと困るって言うか……これ以上訳分からない所へ行くのは嫌だし」
思った事を声に出してみる。恐怖心も不安感もないが、何も無い真っ黒い空間に一人は余りにも寂しい。自分の姿がはっきりと視認出来るので真っ暗いのではなく真っ黒なのだ。
「しかしまぁ、疲れてるのかな……変な夢」
そう呟きながら辺りを見回すが、やはり何も無いし真っ黒い。
「……やる事ないしどうしよう……」
そう零した時だった。すぐ後ろで白い光が輝き、人型になったと思うとそれは随分見覚えのある人物に姿を変えた。
さらさらの黒髪に細身の長身。何故か無駄に整った顔立ち。所謂イケメン。
「……陽介?」
「早苗!? その声……早苗なのか!?」
どうやら早苗がルファへ飛ばされた時と同じで、光で目が眩んで見えていないらしい。何とも記憶に忠実な夢だ。必死で早苗を探しているようである。やはり間違いなく弟の陽介だ。
「うん。てかいつも言うけどお姉ちゃんって呼ぼうよ」
「そんな事はどうでもいいだろ! この二ヶ月どこ行ってたんだよ!?」
目が見えるようになったらしく、陽介は早苗に詰め寄ってきた。
「えー? 何だか変な人に『異世界トリップ』して下さいって言われて拒否ったのに知らない国に放り出された?」
「…………お前頭大丈夫か?」
「うわー、言うと思った。頭大丈夫じゃなかったらきっと今頃病院か警察辺りで保護されてるよ」
「保護されてないから聞いてんだろうが」
何しろ通勤途中でトリップしたのだ。もしそれが現実でなく妄想なら、まず警察に通報されるくらい不審な言動を取っているだろうし、事故か何かで昏睡状態になり夢を見ているのであれば病院に搬送されている事だろう。そう思って言ったのだが、何故かがっくりと項垂れてしまった陽介が答える。
「でも、夢でも会えてうれしいよ。お母さん元気?」
「夢……なのか?」
「え? 夢でしょ?」
「そうだろうなー。マジで早苗何処に居るんだよ……」
「えーだから異世界?」
確証はないが地球ではないようなのでそう言っておく。もし地球と同じ世界でも太陽系から遙か何万光年も離れた惑星だったりしたら、異世界と言ってもいいだろう。自力で還れないのだから。
「……もういいよ。それで……」
「あれ? 信じるんだ? 何か意外」
基本的に弟は非現実的な事は否定もしないが信じてもいない。その弟が異世界と言って何の証拠もなしに信じる方が意外だった。
「あ? 別にそう言うの否定してる訳じゃなくて、俺に関わりがないし興味もないだけだって。早苗がそう言うならそうなんじゃない? 早苗俺に嘘つかないし。つーか、早苗の方がそう言うの俺より信じてなさそうじゃん」
そう言いながら笑う陽介の顔は、家族と特に親しい友人にしか見せない笑顔だった。
(ああ。陽介だ。間違いなく陽介だっ)
不意に涙が溢れてきた。夢でもいいから家族に会いたい。そう願っていた。それがようやく叶ったのだ。本物ではない、自分の生み出した願望だったとしても、それでも会いたかった。
「って早苗!?」
「あーごめん。なんか……あー、ダメだね」
「どした? やっぱ嫌な事一杯されてんのか?」
弟の前で泣いているのが気恥ずかしくなって来たのだが、陽介は何か勘違いしたのかそう聞いてきた。
「んーん。全然。皆いい人だよ。突然現れたどこの誰とも分からない私の事、ちゃんと保護してくれて……不自由ないように気を配ってくれてる。凄く親切にしてくれるの。今ね、私王宮に居るんだよ」
「は?」
「何か宰相さんの部屋に出ちゃったみたいなんだけど、宰相さんがすっごくいい人で婚約者として王宮においてくれてるの」
「はぁぁぁ!? 婚約者って!!」
「その方がいいんだって。国王陛下が言ってた」
「いや、おかしいだろ。色々おかしいだろ!?」
「そうかな?」
早苗は陽介が何をそんなに慌てて怒っているのかさっぱり理解できない。
「わかった。ああ。そうだな。衣食住を保証してくれてるなら有り難い話だな。でも何で婚約者なんだ?」
「二年くらい前から大掛かりな改革を進めてるらしくて。異世界から来たって言うと、混乱する可能性が高いんだって。王妃様も日本人なんだけど、その時異世界から来たって公表して凄く苦労したらし」
「ちょっと待て! 王妃様日本人って……」
早苗の言葉を遮り、陽介が口を開いた。
「うん。私と一緒で変なのに強制的に連れて来られたんだって」
そう言うと陽介が頭を抱える。
「続けるねー? で、異世界人だって言うと必要ない苦労をする可能性があるから、宰相さんの遠縁の外国人の婚約者って事にして王宮に滞在させてもらってるの」
「……なんで王宮なんだ? 宰相さんとやらの家は?」
「近くにあるよ? あ、そう言えば何でだろう? 勉強しやすいのと陛下の課題受けやすいからかな?」
「…………課題って何?」
「一年間陛下の課題全部クリアしたら、この国の公認会計士第一号になれるの」
「……」
「きっと、私が目指していた物とは違ってくると思う。でも、私に出来る事があるならやりたい。ただ何もしないで嘆く事はしたくないの。それが会計に携わる事なら、凄く嬉しい。少しでも道があるなら私は絶対諦めたくない」
「なんで……」
「真理さん、王妃様が言ってたの。何かを成さなければ還る事は出来ないって。それもあるけど、何よりお世話になった人に返せる物があるなら返したいから」
「一宿一飯の礼ってやつ?」
「一宿一飯どころじゃないよ」
「だな」
そう言って顔を見合わせて笑う。陽介はきっと納得なんてしていないだろう。けれど、早苗の頑固さを誰より知っているのだ。
「でもホント、リアルな夢だねぇ」
「あー……そう、だな?」
「ね、私は元気だよ」
「みたいだな。こっちは死ぬほど心配してんのに」
そう言ってまた笑う。
(ああ、そっか。言いたかったんだ。私は元気にしてるって)
そう気付いた時、この空間に来た時と同じように、唐突にその場所が解けていく。夢から覚めるのだろう。
-早苗!!
完全に意識がそこから離れる瞬間、もう一度、弟の呼ぶ声が聞こえた気がした。