1.糾弾
皇帝への進言が不首尾に終わったと聞いても、薛貴人は不満も焦りも見せなかった。
文正堂で赫太子に寄り添う彼女の優しげな笑みは変わらず、胎児の成長も順調とのことだ。兄になる自覚によってか、太子の顔つきもしっかりしてきたようで、それは師として喜ぶべきことではある。
だが、洸廉の胸の裡は安寧とはほど遠かった。
(そもそもアテにされていなかったということか? 時間稼ぎとは何のことだったのだ? 何を企んでいる? ……私に何を、求めている?)
最後の問いがもっとも彼の心を波立たせているのは、どう考えても問題だった。
皇太子の傍にいる、かつ、皇帝の心を捕らえて放さない寵姫が、何を考えているか分からないのだ。さらに言うなら、太子や皇帝を恨む動機も十分にある。ならば、その女の本心を見極めるべく、目を凝らさなければならないところだろうに。
どうして彼は、薛貴人の役に立てなかったことに焦りを感じているのだろう。
「李少師? 今日は、どこからであっただろうか」
と、赫大使の無垢な目に見上げられているのに気付いて、洸廉は我に返った。
(……いかん。皇太子殿下には関係のないこと、集中せねば)
大事な役目を余所に沈思していたなど、不覚の極み。恥じ入りつつ、洸廉は木簡を探った。
「今日は――その」
だが、授業を始めることはできなかった。室外から慌ただしい足音が響いたかと思うと、何の先触れもなく扉が乱暴に押し開けられたのだ。女の高い声が、響く。
「薛貴人!」
声の主は、たいそう贅を凝らした衣装を纏った佳人だった。
後宮にいる以上は、位高い妃嬪のいずれだろう。太子の授業を妨げ、薛貴人を怒鳴りつけるのは非礼ではあるが、洸廉から苦言を呈しても許されるものかどうか──迷う間に、薛貴は無邪気に首を傾げた。
「まあ、皇后様。私に何かご用でしょうか」
「皇后陛下……!?」
太后に次ぐ高位の存在を前にしていると知って、洸廉は慌てて平伏した。呆気に取られていた数秒の間に、それでも皇后が浮かべていた表情は目に焼き付いてしまっている。
高貴な女人が人に見せたいはずのない、歪んだ顔。目を見開き、唇をわななかせた。頬は化粧によらず紅潮し、それでいてまだらに青褪めた──見苦しい、そして激しい憤怒の表情。
(薛貴人が目障りなのは無理もないが。なぜ、今……?)
皇太子と洸廉が、すなわち子供と男がいる場だと知って踏み込むほどに我を忘れる理由は──皇后自らが、教えてくれる。
「祝桂の子が流れたわ」
「右昭儀様が──それは、何と痛ましい」
皇后とは裏腹に、薛貴人は冷静そのものだった。祝桂なる女人の位をわざわざ口にしたのは、洸廉が事情を察せるように、という配慮だとしか思えない。言葉では悼みながら、心がこもっていないのもありありと聞き取れてしまう。
(まるで挑発しているも同然ではないか。これでは──)
洸廉の懸念はまさしく当たった。
怪鳥めいた甲高い声は、皇后の花びらのような唇から漏れた、言葉にならない絶叫だった。床に落ちる皇后の影が激しく揺れ、高く結った髪を掻きむしるのが見て取れる。髪を飾っていたであろう玉が零れ落ちて、洸廉の目の前にも転がった。
「お前の仕業でしょう! すべてお前が現れてからだもの! お前が、あの子に──私たちに毒を渡した!」
「皇后様、お気を確かに──」
皇后の身体が傾ぐ気配を感じて、洸廉は咄嗟に薛貴人を抱きかかえた。彼の肩を、金銀の刺繍が彩る沓が蹴り飛ばす。
再び響いた奇声は、洸廉に退けと命じているようだったが、従うわけにはいかない。薛貴人は懐妊中の大事な身体だ。赫太子は──宦官が盾になってくれているようだ。
洸廉は、皇后が投げつける硯や木簡、竹簡からも薛貴人を守った。時に何かしらの角が当たって呻く彼には構わず、薛貴人はやはり平然と皇后に対峙していた。
「私が、皇后様や右昭儀様に何かを献上したことはないかと存じます」
洸廉の腕の中、やや苦しげな姿勢ではあるが。薛貴人が皇后を見上げる眼差しには一切の怯えもへつらいも過ぎっていない。
「お前からの献上品など受け取れるものか。そうではなくて──でも、そうでしょう! お前の、いつものやり方! そうなるように企んだのでしょう!」
「何のことを仰っているのでしょうか。皇上は、このことを、もう? 早くお伝えしませんと」
皇后の主張が理解できないのは、洸廉も同じ。
だが──きっと、正しいのだろう、という予感がした。いつの間にか思い通りに──何を考えているかは分からないまでも──ことを運んでいるのが、薛貴人のやり方なのだ。
少なくとも、この御方の企みによって落羅氏がほとんど滅びたのを、洸廉は目の当たりにしている。だが、今回のことは、単に政敵を蹴落とすのとは話が違う。
(右昭儀──皇后の妹か。懐妊中だった。生まれる前とはいえ、皇族を害したのか)
皇后の細腕による乱暴狼藉など、何ほどのものでもないが──洸廉の腕は、震えた。
薛貴人が企んだらしいことの罪の重さに慄いて。そして、それでもなお、彼女を守らなければ、と思ってしまう自分自身の愚かしさが信じがたくて。
「お前……お前を! 捕らえなければ皇上に合わせる顔がない! 皇上は欺かれている! 素知らぬ振りで、恐ろしい、おぞましい──妲己、女狐!」
皇后の糾弾は、皇族殺しの大罪に対してだけではないのだろうが。
実の妹と、甥か姪への加害が許し難いというのは、まったく自然な感情だ。余裕を崩さない薛貴人に焦れて苛立ち怒りを募らせ、声が高まり言葉遣いも荒くなっていくのも。どうにかして澄ました顔を波立たせたいと切望するのも。
「先の太子も、お前が殺したのだろう。そうに決まっている!」
だから、皇后が口を滑らせたのも、洸廉としては理解のできる、やむを得ないことではあった。薛貴人も、また微笑で受け流すのだろうと、どこかで思い込んでいた。
この女人が感情を露にするところなど見たことがない。自らの命さえ囮にして策を巡らせる冷徹さ強かさがあるのだから。疑われることも罵られるのも、彼女にとっては大したことではないのだろう、と。
だが、違った。
「──なんですって」
薛貴人が漏らした声に、洸廉は耳を疑った。




