目立たない俺にスクールカーストの頂点が寄ってくる理由が分からない
【Episode 01】存在感ゼロの俺に、学校一の美少女が話しかけてきた
影山透は、クラスに溶け込みすぎて存在しないも同然だった。
座席は窓際の一番後ろ。日当たりが良いのが唯一の長所で、あとは特になかった。先週の席替えでは担任の先生にくじを引き忘れられ、終礼後に「あ、影山くんいたっけ」と言われながら余ったくじを引かされた。クラスの笑い声は、透には向かっていなかった。存在を確認されたことへの安堵より、バグとして処理されたような感覚の方が大きかった。
彼の趣味は読書と、ノートの余白に物語の設定を書き込むことだ。父の書棚から引っ張り出した古い文庫本を昼休みに読んでいると、シャープな影が落ちた。
「ここ、座っていい?」
声の方向を見た透は、少しだけ目を細めた。光の加減ではなく、相手が眩しすぎたからだ。花宮美桜。二十一歳の三年生で、透とは同じクラス。クラス委員で、テニス部の副部長で、地元の雑誌に「高校生インフルエンサー」として掲載されたことのある少女だ。スクールカーストという概念が存在するなら、間違いなく頂点に君臨している。
「……え、俺に?」
「他に誰かいる?」と美桜は少し首を傾けた。その仕草に廊下の男子たちが固まっているのが、透の視界の端に映る。
美桜が向かいの空き席を引いて座った瞬間、透の耳の奥でかすかなノイズが走った。それはいつものことだ。昔から、人が近くに来ると声が聞こえる。声というより、思念の断片。今も美桜の奥から何かが漏れ出している。
――ここなら、しばらく誰も来ない。少しだけ息を抜かせて。
透はそっと文庫本に視線を落とした。美桜が傍らで弁当箱を開く音がする。透は何も言わなかった。美桜も何も言わなかった。ただ昼休みの二十分が、これまでより少しだけ穏やかに過ぎていった。
翌日も美桜は来た。その次の日も。そして一週間後には、クラスで誰もが「あの花宮美桜が影山透と仲がいい」と気づき始め、透の存在はバグから謎へとカテゴリを変えた。透はただ本を読んでいただけなのに。
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【Episode 02】生徒会長が書類の束を抱えて追いかけてきた
水瀬奈々が廊下を走ってくるのを、透は下駄箱の前で見た。
二十二歳の三年生で、生徒会長。背が高く、いつも結い上げた黒髪が揺れている。透は「生徒会の仕事で急いでいるんだろう」と判断して道を開けようとしたが、奈々は透の正面で立ち止まった。
「影山くん、少しいい?」
「は、はい」
「学園祭の備品管理表、去年のデータがどこにも残ってなくて。前任の書記がクラスが一緒だったんだけど、実はあなた詳しいって先生から聞いたんだけど」
透は少し考えた。確かに去年、書記をやっていた三原くんが「もう嫌だ」とデータをUSBに入れて透に押しつけ、そのまま退部した記憶がある。
「USBが家にあると思います」
奈々の顔が一瞬、ぱっと明るくなった。そしてすぐに生徒会長の顔に戻る。
――やっと見つけた。ありがとう、神様。本当に助かった。
奈々の内側からそんな声が聞こえ、透は少しだけ胸が温かくなった。人の本音が聞こえる能力は、悪意を知るより先に、こういうふうに誰かの安堵を受け取ることの方が多い。
「明日持ってきます」と言うと、奈々は深々と頭を下げた。そのまま踵を返しかけて、ふと振り返る。
「お礼に学食の食券あげる。奢るよ」
「いいですよそんな」
「いいから。むしろ一緒に来て。ひとりだと会長席に学食のおばちゃんが話しかけてくるの、ちょっと苦手で」
奈々は少し困ったような顔で笑った。透はその笑い方が、廊下で見る生徒会長の顔とは全然違うことに気づいた。いつもの奈々は完璧な制服の着こなしと隙のない立ち居振る舞いで、誰も近づけない雰囲気を纏っている。でも今の笑い方は、普通の女の子みたいだった。
翌昼、透は奈々と学食に行った。おばちゃんは確かに奈々にいろいろ話しかけてきたが、透がそこにいたせいか、一分ほどで切り上げて次の客へと移っていった。奈々は「すごい」と小声でつぶやいた。透は「俺が透明だからです」と答えた。奈々は一瞬きょとんとして、それからくっと笑った。
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【Episode 03】モデルの宮本あかりが更衣室の前で泣いていた
体育の授業のあと、透は体育館の裏の通路を歩いていた。ここは部活棟への近道で、ふだん人通りが少ない。
だから余計に驚いた。壁に背をつけてしゃがんでいる人影を見て、透は反射的に立ち止まった。
宮本あかり。二十歳の二年生で、読者モデルをしていて、地元では顔が売れている女子だ。ウエーブのかかった栗色の髪と、スカートの丈がいつもほんの少し短くて、男子の目線が自然と集まる。
しかし今のあかりは、膝を抱えて目を赤くしていた。
「……あれ、影山くん」
「ごめん、通り道で」透は一歩下がった。「何でもないなら通ります」
「何でもないよ」あかりは慌てて立ち上がり、スカートを軽く叩いた。「ちょっと目にゴミ入っただけ」
透の耳に声が滑り込んだ。
――また事務所から数字の話。私の顔の話ばかりして、私の言葉は誰も聞かない。
透は少し迷ってから言った。「あかりさんって、何か書いてるんですか」
あかりの目が丸くなった。「なんで」
「いつも手帳に何か書いてるの、見えたことがあって。ノートみたいな感じで」
あかりはしばらく透を見てから、「歌詞」と小さく言った。「歌詞書いてる。でも事務所には絶対内緒。ビジュアル重視で売ってるから、歌とかって言い出すと面倒なことになるから」
「そっか」
沈黙があった。あかりが「笑わないんだね」と言った。
「笑う理由がない」
あかりはしばらく透を見てから、ふわっと笑った。その笑い方は雑誌の写真とは全然違って、なんだか少し幼くて、透はなぜか目を逸らした。
その後、体育の着替えをしていた透は、ふと気づくとあかりが女子更衣室の前で透を待っていた。着替えを終えたタイミングでドアを開けると、目の前にあかりが立っている。距離が近すぎて透は扉に足をぶつけ、よろめいた拍子にあかりの肩に手をついた。あかりの笑い声が通路に響いた。「ちゃんと前向いて歩いてよ」と、今度は本当に楽しそうに言った。
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【Episode 04】体育委員の黒木凜に、補習の付き合いを頼まれた
黒木凜は体育祭の花形で、バスケ部のエース、そして誰もが認める体育委員の中心人物だった。二十一歳の三年生で、身長は女子の中では高めの百六十六センチ。短く切り揃えた黒髪と、いつも笑顔でいる印象があった。ただし、今日に限っては違った。
「影山、古典の補習、一緒に付き合ってくれない?」
放課後の廊下で声をかけられた透は、周囲を見回した。凜は間違えていない。透を見ている。
「俺の古典の点数、普通ですよ」と透は言った。
「それでいい。先生に聞くの恥ずかしいし、同じクラスに古典が得意な人いないから。というか、隣でいてくれるだけでいい。ひとりだと集中できないタイプで」
――見てたら走り込みしたくなるのに、机だとすぐ眠くなる。助けて。
本音が聞こえた透は、思わず少し笑った。「分かった」と言うと、凜は「え、いいの」と目を丸くした。
図書室の補習スペースは、他に誰もいなかった。凜は参考書を広げ、透は自分の読書を持ち込んだ。
三十分ほど経ったとき、凜が「ねえ」と声をかけた。「影山って、なんでそんなに静かなの。授業中もほぼしゃべらないし」
「しゃべらなくても困らないから」
「困らない? 友達できないじゃん」
「できないんじゃなくて、いなくていいと思ってました。今まで」
今まで。という語尾が宙に浮いた。凜が「今までって何」と聞く前に、透は「なんでもないです」と言って本に戻った。
補習後、凜が教科書をしまいながら言った。「ごはん食べてく? 部活の子と約束してるんだけど、影山もいたら賑やかかなって」
「部活のメンバーに知らない人がいたら気まずいです」
「大丈夫、みんないい子だから」
その言葉に、凜の本音は乗っていなかった。乗っていなかったということは、それが普通の言葉、つまり本心だということだ。透はほんの少し間を置いてから、「じゃあ少しだけ」と言った。
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【Episode 05】学年首席・氷室詩織が、本の感想を求めてきた
氷室詩織が透に声をかけてきたのは、昼休みに図書室で本を読んでいるときだった。
詩織は二十二歳の三年生で、学年総合成績で三年連続首席を維持している。医学部を志望していて、ほぼ毎日図書室にいる。透とは毎日のように顔を合わせていたはずだが、会話はほぼゼロだった。
「影山くん、それ読んだことある」と詩織は透の手元の本を示した。「感想聞いてもいい」
本のタイトルは『夜と霧』だった。透は少し迷った後、「人間が極限状態でも意味を求める、という話です」と言った。
詩織は少しの間、透を観察するように見た。「テストに出る要点を言うんじゃなくて、自分の感想を言える人って少ない」
「詩織さんの感想は?」
詩織は少し目を伏せた。「まだ途中。意味を見つけられなかったときのことを考えると、ページが止まる」
透は黙った。詩織の内側から声は来なかった。それは、彼女が今しゃべったことが、そのまま本音だということだ。
「読み終わらなくていいと思う」と透は言った。「俺も三回途中でやめた。それでも本棚に残してる」
詩織が透を見た。何かを値踏みするような目ではなく、初めてきちんと見るような目だった。「あなたって、変わった人ね」
「よく言われます」
「褒めてる」
詩織は本を持ったまま席を立ち、自分の定位置に戻りかけた。ふと透の横を通った瞬間、持っていた参考書の山がバランスを崩した。ぱらぱらとプリントが散らばり、一枚が透の顔に貼り付く。透がゆっくりそれを剥がすと、詩織が小さく「ごめんなさい」と言いながら屈んでプリントを集め始めた。二人の距離が縮まり、詩織の肩が透の腕に触れた。詩織がぴん、と背を伸ばして「先に拾って」と指示を飛ばしてきた。透は素直に手伝い、五枚目あたりでふたりの手が重なった。詩織はすぐに手を引いたが、耳がかすかに赤かった。
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【Episode 06】五人の内側にある、共通した孤独
透はノートに書き留めることにした。美桜、奈々、あかり、凜、詩織。それぞれの「本音」を書くのではない。ただ、自分が感じたことを整理するために書く。
美桜は「息を抜きたい」と思っていた。奈々は「誰かに頼りたかった」。あかりは「顔ではなく言葉を見てほしい」。凜は「頑張りを見せない場所が欲しい」。詩織は……本音が漏れなかった。つまり、言葉と心が一致している、かあるいは守りが固すぎて届かない、どちらかだ。
五人に共通していることが一つある。透に対して、「キャラを演じていない」。これは透がカーストの外にいるからだろうか。脅威にも、評価軸にも入らない存在だから、本音が出やすい。それは少し寂しいことだが、同時に透が彼女たちに提供できる唯一のものだとも思えた。
昼休み、透の席の周りに人が集まり始めていた。美桜が最初に来て、次に凜が「一緒にいいー?」と断りもなく椅子を引いた。奈々が書類を抱えながら「ここで書いてもいい」と確認し、あかりがコンビニのスイーツを持ってきて「みんなで食べよ」と並べた。詩織だけは少し離れた席から参加する形で、本を読みながらときどき会話に混じった。
透はその中心に座って、本を読んでいた。何もしていないのに、なぜか全員がここに来る。クラスメイトたちの視線が奇妙なものを見るようにこちらへ向いているのが分かったが、透には何もできることはなかった。
「透くんってさ、本以外で好きなものある?」と美桜が聞いた。
「散歩と、あと夜の公園」
「地味すぎる」と凜が笑う。「夜の公園ってひとり?」
「今まではひとりでした」
今まで、という言葉が今日二度目だった。誰も突っ込まなかったが、五人が少しだけ顔を見合わせた気がした。
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【Episode 07】美桜の「本当の笑い方」を、透だけが知っている
花宮美桜には二種類の笑顔がある、と透は気づいていた。
一つはカメラ用の、完璧に計算された笑顔。目を細めて、歯を少しだけ見せて、首を微妙に傾ける。二つ目は、本人も気づいていないだろう笑顔。それは眉が少し下がっていて、目が細くなり過ぎていて、どこか情けない感じがする笑い方だ。
二つ目の笑顔は、透といるときにしか出ない。
土曜日、美桜から「近所のパン屋さんに新作出たから一緒に行かない」とメッセージが来た。透は「行きます」と返した。
パン屋は駅前の商店街にあり、二人がトレーを持って売り場を歩いていると、店員に「お似合いですね」と言われた。美桜は慣れた様子で「ありがとうございます」と答えたが、透の方は微妙な表情で「ありがとうございます」と続けた。
「似合ってないって思ってる?」と美桜がパンを選びながら聞いた。
「お世辞に対してどう返せばいいか分からなかっただけです」
美桜が振り返って透を見て、それから本物の方の笑顔になった。情けない、眉の下がった、本当の笑い方で。「正直すぎ」と言いながら、ピスタチオクリームのパンを二つトレーに乗せた。
公園のベンチでパンを食べているとき、美桜が「透くんって、誰かのこと好きになったことある?」と聞いた。唐突だったが、美桜の口調には悪意がなかった。
「分からないです。好きかどうかって、どこで分かるんですか」
美桜は少し考えた。「いなくなったら寂しいって思うかどうか、じゃないかな」
透はそれを黙って聞いた。美桜の内側から声は来なかった。つまり本音だった。
帰り道、美桜がコンビニに寄りたいと言って透も一緒に入った。美桜が雑誌の棚の前で足を止め、自分の顔が表紙に載っている雑誌を静かに眺めた。表紙の美桜は完璧な笑顔で、何も考えていないように見える。
「好きじゃない笑い方だ、これ」と美桜は言った。
透は何も答えなかった。でも少しだけ、「俺が知ってる笑い方の方がいいと思う」と心の中で思った。
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【Episode 08】奈々の本音が初めて言葉になった夜
生徒会の文化祭準備が佳境を迎え、奈々は毎日遅くまで学校に残るようになった。透は特に理由があったわけではないが、放課後も図書室で本を読んでいることが多く、帰り道が奈々と重なった。
水曜日の夜七時半、校門前で並んで歩いていたとき、奈々が「影山くんって疲れないの」と聞いた。
「疲れない、というか、疲れてるかどうか分からなくなってる気がします」
奈々がそれを聞いて、すこし間を置いた。「分かる、その感覚」
透は奈々を見た。
「生徒会長って、期待が大きい分だけ、疲れてるって言えないんだよね。言ったら終わりみたいな気がして」
奈々の内側からは何も聞こえなかった。つまりこれは全部本音だった。透はそれが分かったからこそ、余計なことを言わないようにしようと思った。
「言っても終わらないと思います」と透は言った。「少なくとも、俺には言ってもいいです」
奈々が立ち止まった。街灯の下で、透を見上げた。奈々の身長は百六十二センチで、透の方が頭一つ分高い。
「なんでそんなこと言えるの」と奈々は言った。声が少し細くなっていた。
「俺が透明だからです。話した内容、誰かに広まる心配もないし、明日のクラスで気まずくなるほど目立ってもいないし」
奈々はしばらく黙っていたが、やがてくっと笑った。「透明って言い方、自己評価低すぎ」
「正確な評価です」
「よくない。……透明じゃないよ、あなたは」
奈々はそう言って歩き始めた。透はその言葉の温度をどこに置けばいいか分からないまま、隣を歩いた。商店街の明かりの中で、奈々の黒髪がきれいに光っていた。
駅前で別れ際、奈々が「ありがとう」とだけ言った。何に対しての言葉か分からなかったが、透は「はい」と答えた。それで十分だった。
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【Episode 09】あかりの歌詞を、透だけが聴いた
文化祭の準備期間中、音楽室が夕方以降は誰でも使えるようになっていた。あかりがそこでピアノを弾いているのを透は偶然知った。書類を届けに行った帰りに廊下を通ると、音が漏れていた。
あかりは透が来たことに気づかないまま弾いていた。透はドアのそばで立ち止まり、聴いた。うまいとかへたとか分からなかったが、歌詞が聞こえた。事務所に言えない、自分の言葉で書いたという歌詞。
「見てた?」とあかりが弾き終えてから振り返った。
「聴いてました」
「いつから」
「全部」
あかりは少し硬い顔になったが、透が何も言わないのを見て、少し力が抜けた。「感想は」
「俺には音楽のことはよく分からないですけど、気持ちは伝わりました」
あかりが目を伏せた。「事務所の人には言ったことのない気持ちを書いてる。だから誰にも聴かせたくなかった。でも、あなたには聴かせてもよかったかな」
「なんで俺には」と透は聞いた。本当に分からなかったから。
あかりは少し考えて言った。「あなた、人の話を聴いてるとき、値踏みしてないから」
透は返す言葉を持っていなかった。あかりが立ち上がり、楽譜をしまいながら「また聴かせてあげる」と言った。まるで贈り物をするように、軽くて確かな口調だった。
その日の帰り道、階段を降りながらあかりが「さっき感動した?」と隣で聞いてきた。透が「はい」と答えると、あかりがステップを踏むように一段飛ばしで階段を降り、振り返って透を見上げた。距離が急に詰まって、透は踏み外しそうになった。あかりが「危ない」と笑いながら手を伸ばし、透の腕を掴んだ。二人でしばらくその姿勢のまま固まり、あかりが先に離れて「格好悪い」とつぶやきながら笑った。透は返す言葉もなく、自分の心音だけが少し大きいのが分かった。
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【Episode 10】凜が負けを認めた夜、透は隣にいた
バスケ部の秋季大会で、凜のチームは準決勝で敗退した。
透はたまたまその試合を見ていた。凜が声をかけてきたわけでもなく、他のメンバーに誘われたわけでもなく、ただ奈々が「生徒会として応援に行くから」と言って透を引っ張ってきた。
試合は激しかった。凜はよく動き、よくシュートを打った。それでも最終クォーターで逆転され、そのまま試合が終わった。
帰り道、体育館の出口で凜が透の隣に来た。「見てたんだ」と凜は言った。
「たまたま。良かったです、試合」
「負けたけど?」
「負けたけど、凜さんがよく走ってたのは分かった」
凜は少し黙った。透の耳に声が来た。
――また泣きそう。でもここでは泣けない。キャプテンじゃないけど、エースが泣いたらだめだ。
透は何も言わなかった。凜が「お腹空いた」と言ったので、「コンビニ寄りますか」と答えた。
コンビニのイートインスペースで、凜はおでんを食べながら黙っていた。透もただ隣に座っていた。しばらくして、凜が「来年は絶対勝つ」と言った。言葉に力があった。
「信じてます」と透は言った。
凜がじっと透を見た。「なんで信じられるの。あなた私のこと全然知らないじゃん」
「知ってます。試合を見たから」
凜は少し目を細めて、「それって、試合を見れば人のことが分かるって思ってるってこと?」と聞いた。
「全部じゃないけど、大事なとこは見えると思います」
凜が深く息を吐いた。そのまましばらく天井を見上げて、「ありがとう」と言った。声が少し、いつもより低かった。
帰り際、外に出ると風が強くて、凜の髪が横に流れた。凜が「くしゃ」となった顔で透を見て、透はなぜかそれが少し可愛いと思った。思ってしまったあと、自分でも驚いた。
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【Episode 11】詩織が泣いた理由を、透は聞かなかった
十一月のある夜、透が図書室を出ると、廊下の突き当たりに詩織がいた。窓ガラスに額をつけて、夜の校庭を見下ろしていた。
透は声をかけようとして、止まった。詩織の肩が微かに震えていた。泣いているか、あるいは疲れているか。近づくことが正しいか分からなかった。
――なんで。なんで全部正解しても、足りないって言われるんだろう。
声が来た。透はゆっくり歩いて、詩織の二、三歩手前で止まった。
「帰りますか」と透は言った。理由を聞かなかった。泣いていることにも触れなかった。
詩織が振り返った。目が赤かった。透を見て、一瞬表情が揺れた。
「帰る」と詩織は言った。
二人で廊下を歩いた。いつもより歩くスピードが遅かった。詩織が先を急がないのは珍しかった。
昇降口でそれぞれ靴を履いているとき、詩織が「なんで聞かないの」と言った。
「詩織さんが話したければ話すと思うから」
「他の人だったら聞いてくる」
「俺は他の人じゃないので」
詩織がそれを聞いて、少しの間黙った後、「そうね」とだけ言った。
外は寒かった。詩織がコートのボタンを留めようとして、一番上のボタンが取れかけているのに気づいた。直そうとするが風が強くてうまくできない。透が「貸してください」と言って、詩織の前に立ち、ボタンを押さえた。距離が近くなって、詩織が少し固まった。透はボタンを丁寧に留めて「応急処置だけど」と言って離れた。詩織はしばらく自分のコートを見てから、「ありがとう」と言った。その声が、今夜初めて普通のトーンだった。
「もう泣かなくていいですよ」と透は言った。聞かない、と決めていたのに、最後だけ言ってしまった。詩織は何も言わなかったが、歩き始めた足が少しだけ軽くなったように見えた。
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【Episode 12】文化祭前夜、五人が同じ場所に集まった理由
文化祭の前日、放課後の準備が終わった後、透は体育館の裏手の小さな中庭に一人でいた。ここは人が来ないので好きだった。本を読みながら暗くなるのを待とうと思っていた。
最初に来たのは美桜だった。「なんとなく透くんがここにいる気がして」と言いながらやってきて、隣に座った。
次に凜が来た。「部活終わって帰る前にと思って……なんで美桜がいるの」と首を傾けた。
あかりが来て、「あれ、集合? 聞いてないけど」と言いながらお菓子の袋を広げた。
奈々が来て、「生徒会の確認しに来たら光が見えたから」と書類を抱えたまま中庭に入ってきた。
最後に詩織が、少し離れた所から「うるさい」と言いながら本を持ってきて壁際に座った。
誰も計画していなかった。透が呼んだわけでもなかった。それでも五人が同じ場所に集まっていた。
あかりのお菓子が回り、奈々が書類をそっとしまい、凜が「なんか文化祭の前日っぽい」と言った。美桜が「小説みたい」と笑った。詩織は本を読みながら「うるさい」を三回繰り返したが、一度も席を立たなかった。
透はその中心で、本を閉じた。読めなかった。五人の声と気配がそこにあって、透はそれが煩わしいとは感じなかった。むしろ、ここにいていいのかと思った。自分が場所を取っている感覚は、いつもならすぐに消えたくなる引き金だったのに。
「透くんって、なんで俺なんですか、って聞かないの?」と美桜が言った。
「聞いていいですか」
「聞かなくていい」と美桜は笑った。「今日はここにいるってことで十分かな」
夜の冷気が降りてくる前に全員帰った。透は一番最後に中庭を出て、校門を抜けた。街灯の下に誰もいない道を歩きながら、今まで使ったことのなかった言葉が心に浮かんだ。「今日、良かったな」。それだけの言葉が、透にはとても大きく感じられた。
【Episode 13】文化祭当日、俺の「能力」がバレた
文化祭当日、透のクラスの出し物は喫茶店だった。透は厨房担当で、基本的に表には出ない予定だった。しかし昼過ぎに急遽ホール補助を頼まれ、エプロンを着けて表に出ることになった。
混雑した中で隣のクラスの来客を案内していたとき、透の耳に声が来た。お客の一人、三年の男子が「この店の料理まずい、半額にしろ」と内心で思いながら表向きには何もクレームをつけず食べているのが分かった。
透はそのまま何も言わなかった。能力を使って誰かを助けたり、暴露したりすることは基本的にしない。ただ観察する。それが透のルールだった。
問題はその後だった。美桜がホール係をしていて、ある来客の女子が「彼氏とうまくいってないのに笑顔でいるの大変じゃない?」と美桜に聞いたとき、透の耳にその女子の本音が来た。「美桜ちゃんみたいな子に彼氏の愚痴なんか言えない。どうせ共感してもらえない」という声だった。
透は思わず言ってしまった。「美桜さんは話聞くの得意ですよ」と、その女子に向かって。
女子が目を丸くした。美桜も「え」という顔をした。
「なんでそれ分かるの」と女子が言った。
「なんとなく」と透は答えたが、美桜が透をじっと見ていた。その目は「さっき言葉じゃなかったことが分かったんじゃないの」という確認のようだった。
夕方、片付けが終わった後、美桜が透に「あなたって、もしかして人の気持ちが分かるの?」と聞いた。
透は少し間を置いた。「気持ちというか、声が聞こえることがある」
「声?」
「頭の中のやつ。全部じゃなくて、ときどき」
美桜が透をじっと見た。驚きはあったが、怖がっている様子はなかった。「じゃあ私の本音も聞こえてた?」
「最初に、息を抜きたいって思ってたのは聞こえました」
美桜が一瞬動きを止めて、それからゆっくり息を吐いた。「そっか。……怖くないよ、それ。あなただから」
透はその言葉の意味を問い返せなかった。美桜は何も付け足さなかった。
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【Episode 14】奈々と詩織が、同時に知った
美桜が五人に話したのは翌週の昼だった。透は止めなかった。止める権利があるかどうか分からなかったし、美桜が伝えることを選んだなら、それに従う方が誠実な気がした。
「透くん、人の頭の中の声が聞こえることがあるって」
凜が「え、テレパシー?」と目を丸くした。あかりが「それって怖くない?」と真顔になった。奈々はしばらく黙っていた。詩織は本を閉じて透を見た。
「全部聞こえるわけじゃない。こっちが意図して聞くこともできない。急に来たり、来なかったりする」と透は言った。
「私の聞こえたこと、ある?」と奈々が静かに聞いた。
「奈々さんは……あんまり来ないんです。本音と言葉が近い人は少ない」
奈々が少し表情を緩めた。「それは良かった」
詩織が「私は?」と聞いた。透は正直に答えた。「なんで正解しても足りないって言われるのか、という声が聞こえたことがあります」
詩織が目を細めた。しばらく透を見て、「いつ?」と聞いた。「廊下で泣いてた夜」と透は言った。
詩織が視線を落とした。長い沈黙があった。凜が「大丈夫?」と聞くと、詩織は「大丈夫」と答えた。その声が揺れていた。
あかりが「透くん、私の歌詞書いてるの聴いてたとき、何か聞こえた?」と聞いた。
「聞こえなかった。あのとき、あかりさんは本音と言葉が全部一致してた」
あかりが「そっか」とだけ言って、少しだけ嬉しそうな顔をした。
凜が「なんか急に透のこと、もっとよく知りたくなった」と言った。「人の本音が聞こえるって、すごく孤独じゃない?」
透は少し驚いた。そんな角度で言われたことがなかった。「孤独なのかな、って思ったことはあります」と正直に言った。凜が「でしょ」と深くうなずいた。「だからここにいてよ、ずっと」と、何でもない口調で言った。詩織が「いきなり重い」とつぶやいたが、否定はしなかった。
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【Episode 15】修学旅行の部屋割りで、なぜか俺が問題になった
十一月の修学旅行は京都だった。男女別の部屋割りで、透は地味なグループの男子四人と同室になる予定だった。それは何の問題もなかった。
問題は、女子側の部屋割りだった。美桜、奈々、凜、あかり、詩織の五人が別々のグループになっていて、それぞれが「透くんの様子が見えない部屋はいや」という明確なわけでもない理由で、宿への連絡ルームの近い部屋を集中的に申し込んだ結果、廊下の同じ並びに五人が密集するという珍現象が起きた。
担任が「女子の部屋割り、透くんの部屋の隣に固まってるけど何かあった?」と職員室で首を傾けているのを、透は廊下でたまたま聞いた。透には理由が分からなかった。
初日の夜、自由時間に透が廊下に出ると、隣の部屋から美桜が「あ、いた」と扉を開けた。「一緒に売店行かない?」
そのまま美桜と売店に向かっていると、後ろから凜が「私も」と続いた。あかりも「偶然ー」と言いながら合流した。売店は旅館内の小さな土産物屋で、透がおせんべいを一枚買う間に女子三人が缶バッジや小物を選んでいた。
帰り際、廊下の角を曲がったところで透がすのこに足を引っかけ、体が傾いた。とっさに横の壁に手をついたが、その壁があかりの肩の近くで、あかりが「わ」と声を上げて透の腕を掴んだ。二人がそのままの体勢で固まり、美桜と凜が後ろで「あー」と小さく言った。
あかりが「あなた本当にドジだよね」と笑いながら離れた。透は「すみません」と言いながら耳が熱くなっているのを感じた。凜が「透って意外と顔赤くなるんだ」と言い、透はそれ以上何も言えなかった。
翌日の自由行動で、透は嵐山を五人と歩いた。地図を読んでいた詩織が竹林の手前で立ち止まり、透に「これ」と地図を渡した。二人の手が近くなって、詩織が「読んで」と言った。透が地図を受け取ると、詩織がそっと隣に立って肩が触れた。詩織は何も言わなかった。透も何も言わなかった。
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【Episode 16】凜の誕生日、俺だけが知らなかった
十二月の第二週に、凜の誕生日があった。
透が知ったのは当日の朝で、美桜から「今日凜の誕生日だよ、何かした?」というメッセージが来て初めて分かった。透は何もしていなかった。何もしていない人間が急に「誕生日おめでとう」と言うのはおかしい気がして、透は昼まで黙っていた。
しかし昼になると凜が「透だけ何も言ってくれない」と言いながら透の席に来た。
「知らなかったです、今朝知りました」
「なんで一番最後に!」と凜は笑いながら言った。怒っているというより、それ自体を面白がっているような顔だった。
「おめでとうございます」
「遅い。プレゼントは?」
「知ったのが今朝です」
「じゃあ放課後、誕生日の女の子の荷物持ってくれたら許す」
透は「はい」と答えた。
放課後、凜の荷物を持って下駄箱まで向かう途中、凜が「透って誕生日に何ほしい?」と聞いた。
「本があれば十分です」
「題名は?」
「えっと」と透が少し考えていると、凜が透の鞄を覗き込んできた。今読んでいる本の題名を確認しようとして、透の腕に凜の腕が触れた。透がびくっとすると、凜が「ちょっと待って」と動きを止めず本の背表紙を見た。「これ面白い?」
「面白いと思います」
「じゃあ同じの読む。感想教えて」と凜は言って、自分の鞄に書名をメモした。
帰り道、凜が「透ってさ、私のことどう思ってる?」と唐突に聞いた。透は止まらずに歩きながら「どう、というのは」と返した。「友達? それとも他の何か?」と凜は続けた。透は少し考えた。「友達だと思ってる。でもそれ以外の何かがあるかどうか、まだよく分からない」と正直に言った。凜が「正直すぎ」と笑った。「でも好き、その正直さ」と付け加えた。その言葉の含むものを透はしばらく考えたが、答えが出なかった。
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【Episode 17】詩織が初めて「助けて」と言った
十二月の受験シーズン、詩織の様子がおかしかった。いつも本を読んでいるはずの昼休みに、図書室で参考書を開いたまま一ページも進んでいない時間が増えた。透はそれに気づいたが、言わなかった。
転機は金曜日の放課後だった。透が図書室を出ると詩織が廊下の窓際に立っていた。今日は泣いていなかった。ただ、疲れた顔をしていた。
「影山くん」と詩織が呼んだ。「一つだけお願いしていい」
「はい」
「一時間、どこかで一緒にいてほしい。話さなくていい。ただいてほしい」
透は少し驚いた。詩織が「いてほしい」と言うのは初めてだった。「分かった」と答えた。
図書室の隅の二人席に並んで座った。詩織は参考書を開いた。透は本を読んだ。一時間、ほぼ無言のまま過ぎた。
時計が五時を回った頃、詩織が「ありがとう」と言った。「少し、頭が動くようになった気がする」
「詩織さんに何かあった?」透はこの日、初めて聞いた。
詩織は少し間を置いた。「模試の結果が、今年一番悪かった。親に言ったら、もっとやれって言われた。やれることは全部やってる。でも足りないらしい」
透はそれを聞いて、何かを言う前に詩織の顔を見た。声は来なかった。言葉と本音が一致している。全部、本当のことを言っている。
「足りないのは詩織さんじゃなくて、環境かもしれない」と透は言った。「俺は詩織さんが十分だと思う。というか、十分以上だと思う」
詩織が透を見た。その目が少し揺れた。「なんで言えるの、そんなこと」
「見てたから」
詩織は何も言わなかったが、手元の参考書を少し引き寄せた。一秒後、ページが動いた。透はそれを見て、静かに自分の本に戻った。
帰り際、詩織がコートを着ながら「また頼むかもしれない、いてほしいって」と言った。透は「はい」と答えた。詩織が「返事が早い」と言った。透は「考えることが何もないから」と言った。詩織が小さく笑った。笑い声は静かで、図書室に少しだけ残った。
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【Episode 18】美桜が「透くんのことが好きかもしれない」と言った夜
冬休み前日、透と美桜はいつもの中庭ではなく、学校近くの公園にいた。美桜が「夜の公園に行ってみたかった」と言ったので、透が「じゃあ一緒に行きましょう」と答えた。
街灯の少ない公園は暗く、枯れ葉が積もっていた。ベンチに並んで座っていると、美桜が息を吐いた。
「透くんって、この場所が好きなんだね」
「静かだから」
「しゃべらなくても変じゃないから?」
「それも」
美桜がしばらく黙った。透はその沈黙が苦ではなかった。美桜も同じようだった。
「ねえ、透くん」と美桜がゆっくりと言った。「私、透くんのことが好きかもしれない」
透は少し間を置いて「かもしれない、というのは」と聞いた。
「友達として好きなのか、それ以外の好きなのか、自分でもよく分からなくて。でも、透くんといる時間が特別な気がしてる」
透の耳に声は来なかった。本音と言葉が同じだということだ。
透はどう答えるべきか、少しの間本当に考えた。「俺も、美桜さんといる時間が特別だと思ってる。でも俺も、それが何なのか分からない」
美桜が透を見た。「正直だね、やっぱり」
「ごまかすと分からなくなるから」
美桜が少し笑った。二つ目の笑顔、本物の笑い方で。「答えが出たら教えて」と美桜は言った。「私も考えてるから、一緒に」
透は「はい」と答えた。
帰り道、角を曲がったとき突風が来て美桜のスカーフが飛んだ。透が反射的に手を伸ばして掴んだが、そのまま美桜の首の近くで止まった。二人の距離が近くなって、美桜が透の目を真正面から見た。一秒、二秒。美桜が先に目を逸らして、スカーフを受け取りながら「ありがとう」と言った。声が少しだけ高かった。透の手が、まだ温かかった。
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【Episode 19】奈々が初めて、生徒会長じゃない顔を見せた
冬休みに入って三日目、奈々から「学校の荷物を取りに行くんだけど一緒に来てくれない?」という連絡が来た。透は行くと答えた。
冬休みの学校は静かだった。廊下に人がいなくて、足音が響いた。生徒会室の鍵を開けた奈々が、部屋に入った瞬間に「あ」と言った。
「誰かが片付けてくれてる」と奈々は言った。書類が整理されていた。透が確認すると、副会長がやっておいてくれたらしいメモが机に載っていた。
奈々がそのメモを読んで、少し笑った。いつもの生徒会長の笑顔ではなく、ほっとした顔で。「副会長、気が利く」
「いつも支えてもらってるんですね」と透は言った。
「うん。でもいつもありがとうって言えてないかも」と奈々が言った。「ちゃんとしなきゃって思ってるのに、感謝を言葉にするのが苦手で」
「今日帰りにメッセージ送ればいいと思います」と透は言った。「それだけで十分じゃないかな」
奈々がゆっくり透を見た。「影山くんってたまに、すごく普通のことを言うよね」
「普通のことしか言えないので」
「それが良いんだよ」と奈々は笑った。今日の笑い方は、透が今まで見た中で一番自然だった。
荷物を持って外に出ると雪が降り始めていた。奈々が「あ、傘持ってない」と言った。透も持っていなかった。「走りましょう」と透が言い、二人で駅まで走った。途中で奈々の荷物の紐が解けて、透がそれを受け取った。奈々が「ありがとう」と言いながら走り続けた。ほっぺが赤かった。寒さのせいか走ったせいか、透には分からなかった。駅の軒下に滑り込んで、二人して肩を上下させた。奈々が「こんなに走ったの久しぶり」と笑った。透も少し笑った。
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【Episode 20】あかりが歌詞を世界に届けるまで、俺は隣にいた【感動回】
冬休みの中頃、あかりから「会いたい」と短いメッセージが来た。透が「どこで」と返すと「家の近くの公園でいい?」と来た。
公園のベンチに先に来ていたあかりは、手帳を膝に乗せていた。透が隣に座ると、あかりが「事務所に話した」と言った。
「歌のこと?」
「うん。怒られるかと思ったら、意外と聞いてくれた。ビジュアル路線は変えないけど、SNSで詩を出すくらいならいいって」
透は少し安堵した。「良かった」
「良かったんだけど、怖い」とあかりは言った。「誰かに見せたことなかったから。透にしか聴かせたことなかったから」
透はあかりの手帳を見た。きれいな字で歌詞が書き込まれている。「出せばいいと思う」と透は言った。「あかりさんの言葉は、誰かに届く言葉だと思うから」
あかりが透を見た。その目が少し赤かった。
「なんでそう思えるの」
「あの音楽室で聴いたとき、気持ちが伝わったから。俺みたいな鈍感な人間にも伝わった言葉は、もっといろんな人に伝わる」
あかりが唇を結んで、目を細めた。こらえているのが分かった。それでも一粒だけ、涙が落ちた。あかりがすぐに手で拭いて「泣くつもりじゃなかった」と言った。透は何も言わなかった。ただ隣にいた。
年明け一月、あかりは初めての詩をSNSに投稿した。夜に透の元にあかりからスクリーンショットが届いた。既にたくさんのコメントがついていて、一つに「自分のことを書いてくれたみたいで泣いた」とあった。あかりのメッセージには「透が背中押してくれたから。ありがとう」と書いてあった。
透はそれを見て少しの間スマホを置いた。自分が誰かの背中を押したことが、あまりピンとこなかった。ただ本音を言っただけだった。でも、それで良かったと思った。
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【Episode 21】温泉旅行で、俺の「能力」が限界を超えた
三学期に入ってすぐ、五人全員から「温泉旅行に行こう」という提案が来た。提案者は凜で、企画したのは奈々で、場所を決めたのはあかりで、詩織が「受験前の息抜き」を名目にした。美桜は「楽しそう」と言っただけで全員の意見をまとめた。透は「なんで俺も?」と言ったが、「当然じゃん」と凜に一蹴された。
温泉宿に着いて部屋に荷物を置いた後、宿の共用ラウンジで六人が座っていた。透だけが男子で、他の五人が女子という状況に宿のスタッフが一瞬複雑な顔をしたのを透は見た。
夕方の入浴時間、透は男性用大浴場に入った。湯船に浸かっているとき、仕切り壁越しに女子側の声が聞こえた。それ自体はよくあることだが、この日は壁が薄かった。
そしてあかりの声が「透ってどんな体してるんだろ」と言った。
透は湯の中で固まった。壁の向こうで美桜の「あかり!」という声がして、凜の「気になるじゃん別に」という声と、詩織の「静かにして」という声が続いた。
透はゆっくり湯から上がった。その後男性用脱衣所で着替えていると、廊下側のドアが少し開いて「透くん、上がった?」という美桜の声がした。透は「今着替えてます!」と叫んだ。「分かった、廊下で待ってる」と美桜は言ってドアを閉めた。
廊下に出ると美桜が壁に寄りかかって立っていた。上気した頬で「さっきのあかりは気にしないで」と言った。透が「気になりました」と正直に言うと、美桜が「透くんは正直が過ぎる」と笑った。夕食は全員で囲んで、その話題は出なかったが、あかりがときどき透の顔を見て目を逸らした。
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【Episode 22】詩織の合格と、透が初めて泣きそうになった日
二月の受験結果が出る日、透は学校で普通に過ごしていた。詩織は学校を休んでいた。発表があるのは朝だった。
昼ごろ、透のスマホにメッセージが来た。詩織からだった。「合格した」の四文字だけだった。
透はそれを読んで、少し間が空いた。胸のどこかが温かくなった。ただの情報として処理できなかった。詩織が泣いていた夜のことを思い出した。あの時の震えていた声と、廊下に流れていた風の音を思い出した。
「おめでとうございます」と返した。それだけしか言葉が出なかった。
「ありがとう」と返ってきて、少し後に「なんで今更ちゃんと返信したくなるの、あなたには」という言葉が来た。
透は少し考えた。「俺が本音で話せる相手だからじゃないですか」と返した。
しばらく間があって「そうかもしれない」と来た。
翌日、詩織が登校してきた。玄関先で美桜たちに囲まれて、詩織が少し困ったような顔で「うるさい」と言いながら、でも嬉しそうだった。透は少し離れた場所から見ていた。詩織が人だかりの中から透を見つけて、目が合った。詩織が小さくうなずいた。透も小さくうなずいた。それだけで良かった。
放課後、図書室で詩織が透の隣に座った。「来年からいなくなる」と詩織は言った。「寂しい?」と透は聞いた。「聞き返さないで」と詩織は言ったが、少しの間を置いて「少し、かな」と付け加えた。透も「少し」と答えた。詩織が「同じだ」とつぶやいた。外の空が、少しだけ明るかった。
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【Episode 23】卒業式の日、五人がそれぞれ言ったこと
三月、卒業式の日。三年生の奈々、美桜、凜、詩織が卒業した。あかりだけがもう一年同じ学校にいる。
式が終わって校庭で写真を撮っている間、透は体育館の裏の中庭にいた。なんとなく、誰かが来る気がしたからだ。
最初に来たのは奈々だった。袴姿で来て、透を見て少し笑った。「見つけた」と言った。「いつもここにいるって分かってきた」
「来るとは思わなかったです」と透は言った。
「来るよ。伝えたいことがあって来た」と奈々は言った。真剣な顔だった。「透くんと話して、生徒会長じゃない自分でいられる時間があった。それが今年一番大事なものだった。ありがとう」
透が返す前に、凜が「私もいる!」と声を上げながら走ってきた。袴で走るのは大変そうだった。「透に言いたいことがある」と凜は言った。「バスケの試合の夜、隣にいてくれたこと。忘れない。来年勝ったら、報告しに来る」
美桜が後から来た。ゆっくり歩いて、透の前に立った。「透くん、公園で正直に話してくれてありがとう。まだ答えは出てないけど、考えてる」と美桜は言った。「来年も考えてて」
詩織は最後に来た。袴が似合っていた。透の前に立って、少しの間何も言わなかった。それから「また図書室に行く」と言った。「あなたがいる図書室に、たまに行く。それでいい?」透は「はい」と答えた。詩織が透の目を見て、それからそっと目を逸らした。
四人が去った後、あかりが来た。卒業生ではないが制服のままで来ていた。「私は来年もいるから報告しなくていいんだけど」とあかりは言いながら透の隣に座った。「でも言っておく。透が聴いてくれたから、詩を出せた。ありがとう」
透はその言葉たちを一つずつ、胸の中に置いた。軽くはなかった。でも重すぎもしなかった。ちょうど良かった。
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【Episode 24】春になって、俺はまだここにいる【1期 最終話】
新学期。透は進級した。クラスが変わり、また新しい席を引いた。今度は窓際ではなく廊下側の中ほどだった。日当たりは悪いが、廊下の様子が分かる。
入学式の日、透は新入生の隣に座る二年生の案内係を頼まれた。たまたまだった。去年の透なら「なぜ俺に」と思ったはずだが、今は少しだけ違った。頼まれたならやる、でいい。
昼休み、透が図書室に向かっていると、廊下であかりが「透!」と声を上げた。「学食一緒に行こ」と言いながら近づいてきて、透の隣に並んだ。あかりのSNSは今や数万人がフォローしていたが、本人の歩き方は去年と変わらない。
放課後、透が中庭にいると詩織が来た。制服ではなくカジュアルな服装で、大学のテキストを抱えていた。「来た」と詩織は言った。「言ったでしょ、来るって」透は「来るとは思ってなかったです」と言った。詩織が「また正直」と笑った。笑い声がいつより少し柔らかかった。
奈々からは週に一度くらいメッセージが来た。大学のこと、新しい環境のこと。透は短く返した。それで十分だった。凜からは「インカレのバスケ見にきて」という連絡が来た。透は「行きます」と返した。
美桜からは、三日に一度くらい来た。内容はいつも短かったが、毎回最後に「考えてる」と一言あった。透もいつも「俺も」と返した。
夜、透は中庭のベンチに座って、夕焼けが暗くなるのを見ていた。一年前、ここに座っていたのは自分一人だった。存在感が薄くて、席替えで忘れられて、本だけが友達だった自分。
今も本は読んでいる。存在感も大して変わっていない気がする。でも、何かが変わった。
透の耳に声は来なかった。今夜は誰もいないので当然だった。それでも、少し離れた場所に五人の気配がする気がした。気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。
透はノートを開いて、今日のことを書き始めた。物語の設定ではなく、ただの日記として。「春になって、俺はまだここにいる」とだけ書いて、しばらく夕空を見た。それで今日はいいと思った。




