嘘吐き聖女は救われたい
「蓬月さん、ありがとう!」
それは、教室中が喧騒に包まれている昼休み。
鞄から弁当箱を取り出し、さぁ食べようかと蓋を開けた瞬間だった。
別に、盗み聞きをしていた訳では無い。
俺の席は扉のすぐ近くにある上にその扉も開いていたため、自然と耳に入ってしまったのだ。
「いいえ。気にしないでください」
「ありがとう」と、そう言われていたのは、クラスメイトの蓬月 薊という少女だった。
これは又聞きした話だが、彼女は生徒たちの間で『聖女』などというあだ名で呼ばれているらしい。
実際、彼女と関わりの一切無い俺から見ても、彼女は聖人と言って問題ない程に素晴らしい性格をしていると思う。
誰もやりたがらなかったクラス委員長の役割を自ら進んで引き受けたり、他人の変化にも敏感で少しでも体調の悪そうな人がいれば誰よりも早くに気づき、保健委員を差し置いて保健室へと付き添って行く。
教師からの厄介事も快く引き受けているらしく、実際今しがた感謝を口にしていた人物も今年新卒でこの高校に赴任してきた、歴史科を担当している教師である。
ペコペコと何度も頭を下げる教師に頭を上げさせて、彼女は教室へと入って来た。
「やっぱ蓬月さん⋯⋯可愛いよなぁ」
付近で、4人の友人と弁当を食べながらくっちゃべっていた男子グループの内の一人がそう呟いたのを、俺の聴覚が捉えた。
そういえば、蓬月 薊が『聖女』と呼ばれるようになった所以は、その性格の良さだけでは無い。
蓬月 薊は、有り体に言えば、美少女と呼ばれる人間だ。
外国人の血が入っているらしく、髪は白銀。
瞳は、陳腐な言い方にはなるが、サファイアを埋め込んだかのような矢車菊の青色。
100人に彼女の顔を見せれば、100人が美少女だと答えるだろう。
この美貌とあの性格が合わさってこそ、蓬月 薊は『聖女』というあだ名を付けられたのだ。
「薊ちゃん、さっきの授業で教わった所、ちょっとよく分かんなくて⋯⋯良かったら」
「うん、いいよ。教えてあげる。
でもごめん、ちょっと今生徒会室に呼ばれてるから、放課後でいいかな?」
「うん、もちろんだよ。ありがとう!」
「どういたしまして」
常に他人の事を考えて行動し、自分の事は二の次。
蓬月 薊という少女はつくづく、生きていくのに向いていない。
あんなことを続けていては、身が持つ訳が無いだろうに。
カン、カン、カン⋯⋯と。
全体が赤錆に覆われた、鉄製の階段を踏みしめる。
一歩、また一歩と足を踏み出す度に、錆がポロポロと段差の隙間から階下へと落ちて行く。
時刻は午前1時30分。
午前の1時にやっとバイトが終わった俺は、ようやく自分の家へと帰ってくることが出来た。
「⋯⋯ただいま」
立て付けの悪い扉を開くと、まず煙草の煙たさが俺の身を包み込んだ。
リビングに入ると、机の上には大量の空き缶と、恐らく数箱は空けているだろうくらいの吸殻が入っている灰皿が置いてあった。
ソファを見れば、左手にまだ火のついている煙草を、右手にはまだ半分程度中身の入っている酒の缶を持って眠りこけている男の姿がある。⋯⋯俺の、父親だ。
救いがあるとするならば、煙草の先が灰皿の中に収まっていることだろうか。
「⋯⋯」
火事にされたりしたら、たまったものではない。
父の左手から煙草を掠め取り、口に含む。
煙が喉を通って行き、肺に溜まるのが分かる。
何とも言えない満足感が身体中に広がり、それを目を閉じてたっぷり十数秒、堪能する。
流石に息が苦しくなり、煙と共に空気を吐き出す。
モクモクと上に向かっていき、天井に当たって広がっていく煙を少しの間見つめ、満足してから自室へと引っ込んだ。
あれから3時間ほど仮眠をした俺は、1時間程度勉学に励んだ後にリビングへと向かい、父から一本だけ煙草を拝借した。
窓辺に座り、遥か彼方から登る日を見つめながら、煙草をふかす。
「ぁ〜⋯⋯何してんだろ、俺」
ポツリと、そんな言葉が口から溢れ出る。
脳裏によぎるのは、母さんが生きていた頃⋯⋯もう薄まり始めてしまっている、過去の記憶。
母さんが生きていた頃の父は、今のような人ではなかったはずだ。
むしろ、誰にでも優しくて、酒も煙草も苦手で⋯⋯。
働き詰めで家にはあまり居なかったけど、帰って来た時はどれだけ疲れていても、嫌な顔せず遊んでくれた。
けれど俺が小学三年生くらいだった頃のこと。
母さんが病気で亡くなってしまってから、父は酒と煙草に溺れてしまった。
会社も辞めて、今では働いていた時代の貯金と俺のアルバイトの給金で何とか生活をしている状態だ。
しかし今では、当初には8桁以上も貯まっていた父の通帳には現在、殆ど金は残っちゃいない。
だというのに、父は未だに社会へは復帰できておらず、酒や煙草も控える気が一切感じられない。
「俺が言えたことじゃ、無かったよな⋯⋯」
はるか昔の、父の幻影に縛られて。
未だに父を見捨てられないでいる。
このままじゃ、俺と父は共倒れするのには疑う余地も無い。
父の浪費癖を、矯正しなくてはならない⋯⋯。
―――
私は、今。嘘を吐いて生きている⋯⋯。
「ありがとう!」
私は、その言葉が好きだ。
そして同時に⋯⋯私にとってその言葉は、呪いでもある。
「薊!あなたって子はもぅ⋯⋯どうして言うことが聞けないの!?」
今の私しか知らない人達が知ったら驚くだろうけど、昔の私はイタズラが大好きないたずらっ子だった。
そのせいでお母さんやお父さんにはよく怒られていたけど、私はそれでも幸せだった。
それが変わったのは、何時からだったかな?
中学生になった辺りだっただろうか⋯⋯。
私は怒られる事に、恐怖を覚えるようになった。
何故⋯⋯と聞かれても、自然とそうなってしまったとしか答えられない。
その代わり⋯⋯という訳じゃないけど、私は段々と良い子のように振る舞うようになっていった。
別に、それは嫌じゃない。
最初にも言ったけれど、私は感謝されるのが好きだから。
年々下がっていく自己肯定感が、感謝された時だけ、大分マシになるから。
「薊、お前は本当に良い子だな」
中学生になってからというもの、私は両親から褒められる事が増えた。
頭を撫でられて、笑顔を向けられて。
私はその度に言うのだ、「そんなことないよ」と。
私は、苦手だった勉強にも熱心に取り組むようになった。
クラスのみんなから、頼られたくて。
運動も、昔から得意だったけど、さらに、もっと頑張るようになった。
同じ部活動のみんなに、褒められたくて。
先生の話を、ちゃんと聞くようになった。
みんなから頼られるようになった。
みんなに褒められるようになった。
友達に生徒会長になってみたら?と言われたから、立候補して⋯⋯他の立候補者の子に大差をつけて、生徒会長になった。
そして、晴れて生徒会長になった日の放課後⋯⋯見てしまった。
友達であろう人の胸に顔を擦り付けて、悔しい、悔しいと涙を流す、ライバルだった子を。
そうして、考える。⋯⋯考えて、しまった。
もし私が負けて、あの子が生徒会長になっていたら。
私は、あの子のように泣けていただろうか?と。
答えは、一瞬で導き出せた。
⋯⋯無理だ。何せ私は、大した理由もなく立候補しただけに過ぎない。
ただ、友達に立候補してみたら?と言われて、もし本当に生徒会長になれたら、その友達や両親に、褒めてもらえると思ったから。
そう思ったから、立候補しただけ。
そこにはなんの信念も、理想もない。
思った通り、両親や友達はみんな、私を褒めてくれた。
だけどその時、私の胸に去来したのは激しい虚無感だけ。
私はそんな罪悪感を振り払うために、より一層人のために働くようになった。
生徒会の仕事も、それ以外も。
全部、全部、全部全力でやって⋯⋯気がついたら、高校2年生になっていた。
「好きです!俺と、付き合ってください!!」
目の前の男の子はそう言うと、私へと手を差し出して綺麗に90度、頭を下げた。
今朝、投稿したら下駄箱に『昼休み、体育館の裏まで来てください』という手紙が入っていて、何事かと思って来てみればこれだ。
今どきこんな古典的な告白の仕方をする人がいるのだな⋯⋯などと、妙な関心を抱いてしまう。
またの名を、現実逃避とも言うけれど。
「ごめんなさい。今は恋愛とか考えられなくて⋯⋯こんな気持ちで付き合うなんて、失礼だと思うから」
「⋯⋯そう、ですか」
断られても、それでも諦めてくれない人は一定数存在する。
しかし今回の男の子は、その人たちの例には当てはまらなかったようだ。
身を翻して、トボトボと肩を落としながら校舎の方へと歩いて行ってしまう。
⋯⋯私も、校舎に戻りたいんだけどなぁ。
あの状態の男の子を追い抜かして、さっさと戻ってしまうのも何だか気が引けるし。
何となく手持ち無沙汰になってしまって、取り敢えず何かしようと辺りをプラプラと歩いてみる。⋯⋯と。
「⋯⋯あ」
男の子が向かった先と反対の方向⋯⋯体育館の左右に付いている出入口の所に、さっきの人とは違う男の子が座っていた。
「木笹海くん?」
そこにいたのは、クラスメイトの木笹海 椿くんだった。
だけど、話した記憶はあまり無い。
どれだけ記憶を掘り起こしても、いつも教室の隅で黙々と教科書を読み込んでいる姿しか思い当たらない。
「待ってください、違います」
「⋯⋯えっと、何が?」
急に違うと言われても、何を対象に言っているのかがわからず、つい首を傾げてしまう。
すると木笹海くんは、しまったとでもいう風に分かりやすく顔を顰めた。
「分からないのなら、良いです」
「そうなの?じゃあ、分かったよ」
「はい」
お互いに、無言。
気まずい空気が私と木笹海くんの間に流れる。
木笹海くんはいつも通りの仏頂面なので、気まずいのは私だけなのかもしれないけど。
「あ〜⋯⋯っと、木笹海くんはここで何してたの?」
「⋯⋯見ての通りですが」
木笹海くんはそう言って、ご飯ともやし、そして少しの鶏肉が入った小さな四角い箱を私に見せる。
十中八九お弁当だろうけど、育ち盛りの男の子が食べるお弁当にしては量が少ないような⋯⋯?
「お弁当、それだけで足りるの?」
「もちろんです」
瞬間、お腹の音が鳴った。
私の..では無い、木笹海くんのものだ。
木笹海くんの持つお弁当の中身を見ると、もう四分の一くらいの量しか残っていない
「足りてない、よね?」
「⋯⋯正直に言えば、そうですね」
お気になさらず、木笹海くんはそう言って、またお弁当を食べ始める。
五時間目の授業は確か、体育だったはずだ。
お腹が減ったまま体育の授業を受けて、倒れたりしないのだろうか?
⋯⋯。
「そうだ!」
急に叫び、立ち上がった私を、木笹海くんは怪訝な顔で見つめる。
「ちょっとここで待ってて!」
私はそう言い残して、足早に教室へと戻る。
さっきの男の子はもう自分の教室に戻ったのか、姿は見えなかった。
バッグから自分のお弁当を引っ張り出すと、すぐさま来た道を引き返して体育館へと戻る。
木笹海くんはまだ怪訝そうな顔をしていたけど、元の場所にはいてくれていた。
私は再び木笹海くんの隣に座ると、お弁当の蓋を開ける。
そしてその中から箸で唐揚げをつまみ、木笹海くんの顔の前まで持っていく。
「はい、どうぞ!」
「いや、どうぞと言われても」
「どうぞ!」
言葉を紡ぐ木笹海くんの口に、唐揚げを無理やり突っ込ませた。
しかし木笹海くんは軽々とそれを避けてしまう。
「なんで避けるのさ!」
「そりゃ避けるでしょ、普通!」
「私のお弁当、分けてあげる!」
「最初からそう言ってくださいよ!」
⋯⋯しばし、クールダウン。
急に叫んでしまったせいか、喉が少しイガイガする。
水筒を傾けて、口の中へと水を送り込んで喉を潤す。
「⋯⋯お弁当は、ありがたく頂きます。なので、この弁当の中に入れてください」
そう言って、木海くんは空っぽのお弁当箱をこちらに寄せる。
「分かった!」
私は木海くんのお弁箱に、唐揚げやブロッコリー、おにぎりなどを入れていく。
私のお弁当箱の中身が半分くらいになった頃、木笹海くんのお弁当箱の中が一杯になっていた。
「はい、どうぞ!」
言うと、木笹海くんは微妙な顔をしながらも少しずつ、口に運んでいく。
それを見届けてから、私もお弁当を食べ始めた。
「⋯⋯美味しかったです。ありがとうございました」
数分後、木笹海くんは綺麗に私が私たお弁当を平らげていた。
「本当!?良かった⋯⋯このお弁当、私が作ったんだよね」
「逢月さんが?⋯⋯すごいですね」
それは、なんの捻りもない素直な感想。
少なくとも、私にはそう聞こえた。
「さて⋯⋯俺は、教室に戻ります。今日は、本当にありがとうございました」
木笹海くんはそう言って、立ち上がる。
二度目の感謝の言葉。
私はいつの間にか、テンションが上がっていたのだろうか。
「良かったら、明日からも作ってあげようか?お弁当」
校舎の方へと歩き出した木笹海くんに、そう言ってみる。
「ありがとう」と、そう言ってもらえるならば、私は多分、明日から本気で木海くんにお弁当を作っていただろう。
しかし、木笹海くんの答えは⋯⋯
「そういうの、やめた方が良いと思いますよ?」
木笹海くんは足を止め、振り返って言う。
「人のために身を削る生き方なんて、いつか限界がきます」
その言葉は、私の胸に深く..突き刺さった。
私は何も言えず、足元に視線を落としてしまう。
木笹海くんは、それ以上は何も言わなかった。
「いや、それは俺の言えたことじゃなかったな⋯⋯」
聞き取れなかったけど、木笹海くんは最後に何かをボソリと呟いてから、再び歩き出してしまった。
私が再び立ち上がったのは、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってからだった。
―――
「薊~?もう七時よ!降りてらっしゃい!」
階下から聞こえた、母の言葉で目が覚める。
そしてスマホで現在の時刻が7時30分だと気づく。
「やばっ!」
通っている高校への距離が徒歩15分程度とはいえ、しっかりと洗顔をして、歯磨き⋯⋯それと朝食を撮る時間を考えたら、もうあまり猶予があるとは言えない。
今日のお弁当は昨日の夜ご飯の余り物かなあ⋯⋯などと考えながら、私はベッドから飛び起き、飛び⋯⋯飛び⋯⋯起きられない。
身体が、言うことを聞かないのだ。
「あれ?」
腕や、手、指は、動く。
でも身体を動かそうとすると、途端にいうことを聞かなくなる。
どれだけ、動きたくても..動こうと藻掻いても、動かない。
そして私は今日、中学生になって以来で初めて、学校を休んだ。
「なんで学校に行かないの、薊!?」
あれから一週間。
私はまだ、一度も学校へ行けていない。
行きたくないのではない、行けないのだ。
身体を動かそうとすると、まるで私の身体じゃないみたいに身体が私の命令を拒否する。
お母さんに怒られたのは、いつぶりだったかな⋯⋯。
それすら思い出せないくらい、最近は怒られていなかった。
「学校へ行きなさい、薊!」
違う、違うの、お母さん!
行かないんじゃなくて、行けないんだ⋯⋯。
喉まで出かかったその言葉は、でも、言葉にはならない。
もっと怒られるかもしれないから。
これ以上、怒らせたくないから。
「最近は良い子になっていたと思っていたのに...あなたはそんなに、お母さんを怒らせたいの!?」
それは、お母さんが怒った時の口癖のようなもの。
そんな訳がないのに。
否定したいのに、やっぱり、声は出ない。
「なんとか言ってみなさいよ、薊!」
何も言えない。
何も答えなかったら、さらに怒りを募らせる。
それは分かっている。
分かっているけど、声にならない。
これは、もう⋯⋯どうにもならない。
「お父さんが帰ってきたら、もう一度話しましょう」
それだけ言い残して、お母さんは私の部屋を去って行った。
お父さんは、先々週から海外出張に行っていて、今は家にいない。
けれど、明日には帰ってくる。
明日には、私を怒る人が1人から、2人に増える。
「⋯⋯」
枕に、頭を投げ出す。
今の私にできるのは、現実逃避だけだ。
後は後の私に任せて、今の私はとりあえず、眠ることにした。
『人のために身を削る生き方なんて、いつか限界がきます』
いつかに聞いたそんな言葉が、落ちていく私の思考の隅にへばり付いていた。
目を覚まし、スマホで時間を確認する。
するとスマホのホーム画面に映る時刻は、25時30分を示していた。
お腹が、空腹を訴えてくる。
この時間なら、お母さんはもう眠っているだろう。
キッチンまで行ければ、おそらく何か食材は残っているだろう。
「⋯⋯え?」
ベッドから、降りる。降りることが、出来た。
身体が動く。自由自在に、思った通りに。
階段を降りてリビングまで行くと、机の上にラップのかかったハンバーグと、ご飯が置いてあった。
「これから、どうしよっかな⋯⋯」
ハンバーグを食べながら、呟く。
これまで眠っていたせいか、全く眠気が無い。
リビングから窓の外を見てみると、真っ暗な庭が見える。
そうだ⋯⋯外に出てみよう。
そう思ったわけではない。
気がついたら、外に出ていた。
家の庭ではない。近所にある公園だ。
アスファルトで舗装された道を歩くと、硬く高い音が耳まで届く。
普段は人々の喧騒に飲み込まれてしまって、聞こえない音だ。
車の音さえ聞こえない、自分の足音だけが聞こえる空間。
ブランコがあった。
なんとなく興味を惹かれて、ブランコに座り、ゆらゆらと揺れてみる。
今度に聞こえてくるのは、ブランコを漕いだ時に発生する、甲高く耳障りな音だ。
しばらくの間、耳障りな音を楽しむ。
そうして、どのくらいかが経った頃⋯⋯、
「逢月、さん?」
誰かが、私の苗字を呼んだ。
バッと、声のした方を見ると、いつぞやのように怪訝な顔をした木笹海くんが、そこにいた。
しかしその右の頬は真っ赤に腫れていて、全身にはガラスのようなもので傷つけられたかのような切り傷がついていた。
「本笹海くん、その傷⋯⋯大丈夫なの!?」
そばに駆け寄ると、その傷がよりはっきりと分かった。
傷の中には思っていたよりも深いものもあって、その中には骨まで届いていそうなものもある。
「そういえば⋯⋯あなた、最近学校に来ていませんでしたね」
しかし木笹海くんは何てことないかのように、言葉を続ける。
「限界が、来たんですね」
そう言われて、私はやっと、理解した。
私が学校に行けなくなったのは、限界が来たからなのだと。
活動限界⋯⋯身体は、動かなかったのではない。
真に動かそうとしなかったのは⋯⋯動かせなかったのは、私の精神の方だ。
心が無意識にストッパーをかけていたのだ。
「そうですか⋯⋯あなたもですか⋯⋯」
いつの間にか、木笹海くんは、ブランコに座っていた。
その顔は完全に無表情で、何を考えているのか、読み取ることはできない。
「私、これからどうするべきかな⋯⋯?」
「そんなの、俺が聞きたいですよ」
木笹海くんは、膝に頬杖をつき、ぼー、と公園の赤子を眺めいる。
「ん~⋯⋯、よし!」
木笹海くんは急にそんなことを言って、立ち上がった。
ブランコの椅子が慣性の法則に従って、キイキイと言って揺れる。
呆気に取られていた私に向かって、木海くんは手を差し伸べた。
「逃げましょう、一緒に!」
私の思考を、大量の「?」が埋め尽くす。
「逃げるって⋯⋯どこにさ?」
「どこでもいいでしょう、そんなの」
「北でも、南でも⋯⋯西も良いな」と、顎に手を当てて、ぶつぶつと言う木笹海くん。
「なんで急に?」
私の問いに、木笹海くんは子供のような笑顔を顔に浮かべて答える。
木笹海くんの年相応な表情を見るのは、そう言えば初めてかもしれないな。
場違いなのは分かっているけれど、そう思った。
「とりあえず、どこでも良いから逃げたくなりました、このクソみたいな場所から!でも1人で逃げるくらいなら、どうせなら誰かを道連れにしてやりたい⋯⋯そう思っただけです」
「嫌なら、1人で逃げます」そう言って、木笹海くんは再び私に手を差し出す。
その手を向ける木笹海くんの手は、私が今まで見てきたどの人の顔よりも、表情よりも、輝いているように見えて⋯⋯。
そして。その手を、私は――




