第9話 逆流時間帯(リバース・タイムウォーター)水面に戻るはずのない瞬間
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声が物質化した森から救助した翌日。
俺は、夜明け前の降下艇に座っていた。
睡眠は最低限。
疲労は蓄積していたが、それ以上に“違和感”を積み重ねていた。
透明大陸。
重力の逆流。
折れた地平線。
未来残響。
声の物質化。
すべて無関係を装って姿を見せながら、
どこかで繋がっている気配がしていた。
そんなとき、リネアの声が届く。
『こちらリネア。ノワール、音声チェックお願いします』
「問題ない。降下艇は安定している」
『ありがとうございます。……では今回の異常ですが――
“水だけが時間を逆向きに流している”との報告です』
「水だけ……?」
『はい。
流れが反転するのではなく、
“時間そのものが逆行”しているようです』
「……話が分からん。どういうことだ?」
『最新の報告では、
湖に沈んだ魚の死骸が“蘇生して泳ぎ始めた”とのことです』
「死骸が……生き返った?」
『はい。
水中で時間が巻き戻された結果だと推定されます』
時間逆行。
その言葉の重みを、世界は理解していない。
『さらに、投げ込んだ石が“水面に戻ってくる”現象も観測されています』
「なるほどな……落ちる前に戻るわけか」
『その通りです。
ですが、水域の外に触れると正常な時間に戻ります』
「つまり逆流しているのは、水の中だけということか」
『はい。
ただし問題があります』
「行方不明者か?」
『……二名。
一名は湖に落ち、
一名は“水面に引き戻された”という証言を最後に姿を消しました』
「水面に引き戻された……?」
『はい。
“落ちた人が、落ちる前の位置に戻る”現象です。
逆向きの時間の力が、人間にも作用している可能性があります』
それはつまり――
“死ぬ直前に戻る”現象も起き得るということだ。
時間が逆転すれば、人は死の瞬間をなかったことにされる。
だが同時に、未来をすべて失うことにもなる。
『ノワール、現場は非常に危険です。
時間の逆行は戻せません。
巻き込まれれば、“あなた自身が過去へ押し戻される”可能性があります』
「戻るのは“何秒”だ?」
『観測では――
約15〜20秒です』
長い。
十分に長い。
「了解した。現場に向かう」
降下艇が着地した。
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■湖畔
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湖に近づくとすぐに異常を察知した。
空気が妙に冷たい。
朝の太陽が湖に映るはずの光が――
“逆方向に伸びている”。
水面の光が、
本来の方向とは反対へ滑っていく。
「……この光の流れ、逆だな」
『はい。
光の反射“ではなく”、
光が水の時間に引きずられて逆行しています』
「光に時間はないはずだが?」
『水分子の時間だけが巻き戻ると、
水中で反射した光だけが“時間逆行の位相”を帯びます』
つまり水の中で反射した光だけが、
未来から過去へ向かって進む。
これ以上ない異常だ。
湖畔には警戒線が張られ、地元隊員が震えていた。
「状況を聞かせてもらう」
「黒須調査官……湖に落ちた者は、戻ってきていません。
音だけが戻るんです……!」
「音?」
「落ちた瞬間の“叫び声”だけが、数秒後に水面から戻ってくる……
本人は戻らないのに……声だけ……!」
声だけの逆再生。
それはつまり――
落ちた後の行方が完全に不明だ。
「行方不明者はどこで落ちた?」
「この桟橋です……!」
俺は桟橋へ向かった。
湖面は静かだ。
しかし、静かすぎる。
風が湖面を撫でても、波が進まない。
波紋は“押し戻される”。
水面が“時間を遡っている”のだ。
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■時間逆行の“渦”
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『ノワール、湖の中心部に“時間逆流の渦”があります。
そこだけ逆行速度がさらに速い……20秒以上戻っています』
「行方不明者はそこへ……?」
『可能性が高いです。
ただし、接近すればノワールも巻き込まれます』
「巻き込まれたらどうなる?」
『“20秒前の場所”に戻されます』
「大したことはないな」
『いえ――
戻されるのは“あなたの身体”だけです』
一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
「……身体だけ?」
『はい。
逆行は“物質”にのみ作用します。
情報、記憶、意識は現在のままです。
つまり、20秒前の場所に“現在の意識”だけが押し込まれる』
耐え難いノイズだ。
「……最悪だな」
『はい。
脳が処理しきれず、“意識喪失”の危険性があります』
それでも――
俺は行くしかない。
「救助可能な見込みは?」
『一名は……まだ生存反応があります。
“逆行域の内側”に留まっています』
「なら助ける。案内を」
『ノワール……』
「心配するな。
水に触れないようにすればいいんだろ?」
『それでも……危険です。
どうか……慎重に』
その静かな声に、覚悟が引き締まる。
俺は桟橋の先端に立ち、
逆流の渦を見つめた。
湖面の中心が、光を吸い込みながら逆方向に渦巻いている。
水が“過去に戻っていく”。
そして――
渦の中から、声が戻ってきた。
『――たすけ――』
声だけが、湖面の反射から再生されていた。
行方不明者の声だ。
だが、本人の姿はない。
『ノワール、渦の中心に“固形化した時間の層”があります。
そこに行方不明者が“固定”されています』
「固定?」
『はい。
逆行が強すぎるせいで、
彼女の身体が“常に20秒前の状態に戻され続けている”』
「つまり、時間の膜に閉じ込められているわけか」
『その通りです。
救助するには、逆行の波を“遮断”しなければなりません』
「遮断は可能か?」
『可能です。
逆行の波は、物質より“熱”に弱い。
水を温めれば、局所的に逆行が止まります』
「熱か……」
俺は携帯熱線装置を取り出す。
「熱線で水面の逆行を破壊し、
彼女を引き抜く――それでいけるな?」
『理論上は、はい』
「理論上か」
『……ええ。ノワールが行うなら、成立します』
その言い切りが、不思議と心強かった。
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■湖への侵入
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俺は桟橋からロープを伸ばし、
逆流渦の縁まで慎重に近づく。
水面の波紋が“逆向き”だ。
波が俺の足元へ戻ってくる。
試しに小石を落とす。
チャプッ――
石は沈んだ。
……数秒後、
同じ石が水面から“浮かび上がって”戻ってきた。
「……気持ち悪い現象だな」
『ノワール、逆行の強さが増しています。
急いでください』
「了解。渦の核心に視認可能な反応は?」
『はい!
“時間膜”が見えます。
そこに彼女が――』
「確認した」
渦の中心に、薄い膜が浮かんでいる。
水面から一段浮いた、半透明の揺らめき。
そこに――
女性が倒れた姿勢で“固定”されている。
動いていない。
だが、死んでいない。
時間が逆流しているため、
“死ぬことも、生きることもできない”状態になっている。
『ノワール、熱線を!』
俺は装置を構え、
渦の中心へ向けて照射した。
ピシィ……ッ!
水面が蒸発し、
逆流の波が乱れ始める。
しかし――
そのときだった。
俺の身体が、引き戻された。
「……ッ!」
水に触れていないのに、
時間逆流の力が空気の湿度を伝って作用したのか――
身体が“20秒前の位置”へ瞬時に戻った。
世界がズレた。
脳が揺れる。
『ノワール!!
あなたが“20秒前”に戻りました!!
意識は現在のままです!!』
「分かってる……ッ!
頭が割れそうだ……!」
めまい。
吐き気。
脳の情報と身体の位置が一致しない。
『ノワール!
“もう一度逆流に触れたら危険”です!
意識が崩壊します!!』
だが――
渦の中心では、女性が時間膜の中で震えている。
助けを求める声が、
逆再生されながら水面へ浮かび上がる。
――さけたす……
――ろぐゃ……
――……てすけた
「……行く」
『ノワール!!』
「俺の仕事は……
“今の時間”に戻すことだ」
俺は再び渦へ接近し、
熱線装置を最大出力で起動した。
熱で逆行が崩れ、
水の時間が“混乱”する。
その混乱の中へ、
俺は手を伸ばした。
「……ッ!」
膜が破れ、
女性が落下する。
俺はその身体を抱きとめ、
逆方向へ飛び退いた。
直後――
渦は大きく波打ち、
時間逆流が破断音を立てて解けた。
水面が正常な揺らぎへ戻る。
『……ノワール……
本当に……よかった……!』
「まだ意識はある。急いで帰還する」
『了解……帰還ルートを送ります。
ノワール……本当に、お疲れ様です』
湖は静かになった。
だが俺には分かっていた。
逆流現象は偶発ではない。
透明大陸。
重力逆流。
折れた地平線。
未来残響。
声の物質化。
そして今の“時間逆行”。
すべてが一つの方向へ向かっている。
世界が、
“別の世界の時間”を取り戻そうとしている。
誰かが――
それを仕掛けている。
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