第8話 声の物質化(フォノ・マテリアライズ)音が形になる森で
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未来の音が先に響いていた《未来残響域》から数日。
世界は少し静かになったかのように見えたが、
静けさは異常の“前触れ”でしかない。
俺は再び降下艇の中にいた。
湿った夜気が機体の外壁を叩き、
内部の照明だけが静かに揺れる。
『こちらリネア。ノワール、音声チェックお願いします』
「問題ない。降下艇の機能も正常だ」
『ありがとうございます。
……では今回の異常ですが――
“声が物質化している”との報告が入っています』
「声が……物質化?」
『はい。
現場で叫ぶと、その叫びの形が“固体”として残るそうです。
波形の形状が、そのまま空気中に“固着”します』
「……音の形が残る?」
『その通りです。
たとえば“助けて”と叫んだ場合、
その音波の形が半透明の“紋様”として空中に生成されます。
しかも触れると硬い』
音が、固体として残る。
理解が追いつかない現象ほど、危険性は高い。
「行方不明者は?」
『二名。
そのうち一名は“自分の声に閉じ込められた”と無線で告げたのが最後です』
「声に閉じ込められた?」
『はい。
叫んだ声が物質化し、その“固まった声の壁”に囲まれたようです』
声が壁になる。
叫ぶほど、逃げ道が塞がれる。
『ノワール。
声の扱いが非常に危険です。
現場では“喋らないこと”を最優先してください』
「了解した。通信は?」
『超指向性の無音通信で繋ぎます。
私からの音声だけは、物質化しません』
「その仕様は助かる」
『……あなたの声は、物質化します。
どうか慎重に』
その言い回しに、わずかな緊張が混ざっていた。
声が“形になる”。
物質として、この世界に残る。
それはただの好奇心では済まない。
言葉は、武器になり得る。
そして――檻にもなる。
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■森へ
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降下地点は、森の入り口だった。
夜の森は静かだ。
だがその静寂の中に、“声の残骸”が浮いていた。
木々の間に――
半透明の歪んだ曲線、“音波の線”が散乱している。
まるで空気に書かれた落書きのように、
叫び声の“形”だけが、固体として浮かんでいる。
「……これが、声の残骸か」
手袋の指で触れる。
固い。
氷のような、微かに震えるガラスのような感触。
その表面には微小な振動――
音の“残響”がまだ震えている。
『ノワール、周囲の声紋はすでに“物質化安定フェーズ”です。
触れても危険はありません』
「分かった。進む」
森の奥は、半透明の紋様と歪んだ板のような声の破片で埋め尽くされている。
“キャアッ”と叫んだ形が、空中に弧を描いて残っている。
“うわあああ”と伸びた声が、壁のように連なっている。
人の恐怖の声が、そのまま“硬い地形”になっている。
この森では、叫ぶほど“出口が塞がる”。
そのとき――
耳に反響が届いた。
小さな声。
震えた声。
『……たすけて』
少女の声に聞こえた。
だが、森には誰もいない。
『ノワール、その声……未来音ではありません。
“残響”です』
「残響?」
『はい。
過去に叫ばれ、物質化した“音声の癖が残った残滓”です。
実際の人間の声ではありません』
「……まるで、この森自体が泣いているように聞こえる」
『その表現は正しいと思います。
声の物質化は、“痛み”のような反応を示します』
森全体が、かつての叫び声を抱え込んでいる。
そして時折、その叫びが“声になって漏れる”。
生き物ではない。
ただの音の死骸。
だが、生者の声の癖を真似て呟く。
だからこそ不気味だ。
奥へ進むと、地形はさらに異常になった。
巨大な波形――
まるで海の波が固まったような形の“声の壁”が森を塞いでいる。
『ノワール、その波形……
行方不明者の“叫びの形”です』
「ということは、近いな」
『はい。ただし、叫ぶとさらに積み重なります。
どうか沈黙を。』
俺は壁の隙間を探し、抜け道へ潜り込む。
狭い。
声の固体は鋭利だ。
刃物のように尖った部分もある。
呼吸だけが響く。
そのとき。
“俺の声”が響いた。
『――やめろッ!!』
リネアではない。
俺の声。
だが、声紋分析の癖が違う。
未来音とも違う。
これは――
“過去の俺の声の物質化”が反響した音だ。
「……悪趣味だな」
『ノワール、落ち着いてください。
それはあなた“ではありません”。
ただの“音の残骸”です』
「分かっている」
分かってはいる。
だが、自分の叫び声が物質化し、
森で勝手に反響しているというのは――
精神に嫌な影響を与える。
さらに進む。
森の最奥で――
俺は見つけた。
声で囲まれた“檻”を。
波形が折り重なり、
半透明の曲線が人ひとりを包むように固定されている。
中で震えているのは、行方不明になった調査隊員の女性だった。
「……聞こえるか?」
声を出した瞬間、
俺の声が檻の表面に一瞬“刻まれた”。
だがすぐに表面を流れ落ち、固着しなかった。
『ノワールの声は“落ち着いた周波数”です。
物質化の閾値を越えないため、固化しません』
「助かる仕様だ」
『ええ……あなたの声は、物質化しづらいです』
ほっとしたように言う。
その声に、わずかに安心が混じっている。
隊員は震えていた。
「……こわい……声が……集まってくるの……
助け……て……」
その怯えた声が――
檻に触れた瞬間、
“新しい声の板”が生まれた。
声が、形になって檻を厚くしていく。
彼女の恐怖そのものが、
彼女を閉じ込める檻になっている。
『ノワール、檻は“恐怖の声”を栄養にしています。
彼女を安心させない限り、檻は壊れません』
「なら、喋らせない方が――」
『いえ。
精神の安定が必要です。
……できることを、してください』
その声はやけに静かだった。
俺は隊員に近づき、低い声で囁く。
「怖くない。
俺が来た。
ここから出す。
もう声を出すな。
大丈夫だ」
声は物質化しなかった。
俺の声は、落ち着きすぎていて、
この森では“固体になれない”。
ありがたい性質だ。
その瞬間――
檻の波形がひび割れた。
『ノワール、その調子です。
彼女の恐怖の“周波数”が下がっています』
檻は声でできている。
なら、壊すには――
“恐怖以外の声”を上書きすればいい。
俺は静かに言った。
「ここには俺がいる。
落ち着け。
声を奪わせるな。
恐怖は、お前の声じゃない」
檻の揺らぎがさらに弱まる。
隊員は涙を浮かべ、震える声でつぶやいた。
「……ありがとう……ございます……」
その声は――
檻を厚くしなかった。
“感謝の声”は物質化しないのだ。
『ノワール、今のです。
“恐怖ではない声”は物質化しない。
つまり、檻を壊す鍵です』
「理解した。退避させる」
俺は携帯衝撃装置を檻へ押し当てる。
内部の振動が弱った檻は、すぐに崩れた。
隊員を抱え出し、その場から離れる。
そのときだった。
森の奥から――
巨大な“声の波形”が迫ってきた。
地鳴りのような低い声。
だが、誰かの声ではない。
これは、森そのものの――
“悲鳴”だ。
音が、暴走している。
『ノワール! 声の巨大固体が接近中!
振幅、非常に大きい! 衝突すれば粉砕されます!』
「走る!!」
森の中で、巨大な“音の塊”が追いかけてくる。
地面を削り、木々を砕きながら迫る。
隊員を抱え、俺は森の出口へ走った。
背後で、音の化け物が唸りを上げる。
『ノワール、右へ!
未来音から逆算した安全ルートを送ります!』
未来音のデータを使い、リネアが最短経路を導く。
俺はその指示に従い、木々の狭間をすり抜ける。
そして――
森の境界を抜けた瞬間。
巨大な声の塊は、境界を越えられず、
その場で“砕け散った”。
半透明の破片となって地面に落ち、
やがて音のない塵へと変わった。
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■任務終了
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森は静けさを取り戻した。
声の残骸だけが、夜風に揺れている。
通信越しに、リネアが静かに息を吐いた。
『ノワール……無事で、よかった……』
「心配したのか?」
『……職務上、当然です』
その声は、少しだけ震えていた。
「声が物質化する森で……
お前の声が一番、落ち着いて聞こえた」
『それは……そう設計されていますから』
「違う。
お前の声が、俺を生かしたんだ」
沈黙。
わずかに暖かい沈黙。
『……帰還ルートを送ります。
今日も……お疲れ様でした、ノワール』
「お前もな。リネア」
声が形になる世界で、
俺が頼れるのは、あの声だけだった。
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