第3話 〈後編〉塔の底、反転世界の呼吸
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世界が爆ぜたような白に塗りつぶされ、次いで、音が死んだ。
衝撃そのものは、思ったほどではなかった。
ただ、身体のあらゆる軸が、ばらばらに分解されてから、無理やり別の規格で組み直されたような違和感だけが残る。
膝が床を打つ。
床――そう認識したものは、視覚的には「白い砂」のようで、感触は硬質な金属のようで、その実体はどちらでもない。
『……レ……ネア……』
喉が勝手にその名を呼び、耳の奥でノイズ混じりの声が返ってくる。
『こちらリネア。ノワール、聞こえていますか』
「……聞こえている。映像を送る」
俺は上半身を起こし、ヘルメットカメラの向きをゆっくりと変えた。
そこは、「塔の内部」という言葉では足りない場所だった。
黒い柱が林立している。
だが、その柱は床からまっすぐ立ち上がってはいない。
途中で折れ、ねじれ、空間の途中から生えているようにも見える。
上下の感覚が、曖昧だ。
どこまでが地面で、どこからが壁で、どれが天井なのか、判断が追いつかない。
頭上――と仮に呼ぶ方向を見上げれば、白い粒子が、雪のように漂っている。
しかし温度はない。熱も冷たさもない。
ただ、「そこにある」という情報だけが、感覚器へ侵入してくる。
『……映像、受信しました。解析を開始します』
リネアの声は酷く遠いが、確かに届いている。
『物質構造……既知のどの元素とも一致しません。
量子スキャンでは“存在密度”が異常に低い。ほとんど真空に近いのに、あなたの足は沈まない……』
「こっちの感覚では、“歩けるノイズ”ってところだな」
俺はゆっくりと立ち上がる。
膝関節、脊椎、視界。
自分の身体が、自分のものではないような違和感はあるが、致命的な異常ではない。
まずは呼吸を確認し、心拍を測る。
モニタに表示される数値は、許容範囲内。
緊張で幾分か上がってはいるが、崩れるレベルではない。
『ノワール。周囲に生命反応はありませんが……』
「“今の基準では”、だろう」
この場所では、何が生命で、何が無機物なのかさえ、まだ決まっていない。
黒い柱の一本が、視界の端で微かに震えた。
動いたように見えただけかもしれない。
だが、境界異常の現場で「見えた気がした」を無視するのは、悪手だ。
俺は意識的に歩幅を小さくし、足元の白い砂を踏む。
踏んだ瞬間だけ、そこに“地球側の物理法則”が顔を出すのか、波紋じみた揺らぎが広がっては消えた。
『ノワール、あなたの足跡が……』
「ああ、すぐ消えているな」
残らない足跡。
記録されない存在。
ここは、そういうルールで動いているらしい。
そのときだ。
黒い柱の間を、何かが横切った。
影。
人影に似ているが、輪郭が定まらない。
煙が人型を真似ている、と言った方が近い。
『……ノワール。前方十時方向に、未知の形状。シルエット解析では“人型”です』
「見えている」
影は、こちらを見ている――ように感じられた。
顔らしきものはない。
だが、向きだけははっきりと「俺」を指している。
残留思念、という言葉が脳裏をよぎる。
死者の意識が残った、というロマンチックな意味ではない。
ここには“この塔を通過した何かの軌跡”だけが、データの焼き付きのように漂っているのだ。
『音声センサーに、極めて微弱ですが、人間の言語パターンに似た波形が混じっています』
「翻訳に回せるか?」
『試みます』
リネアの指が、遠い管制室で動いている光景が、目に浮かぶ。
それを打ち払うように、俺は影から視線を切り、周囲を確認した。
空間は広い。
どこからどこまでが「一つの部屋」なのか、感覚が掴めない。
だが、黒い柱が密集している方向と、疎になっている方向がある。
塔が“奥”を隠そうとしているなら、密な方が怪しい。
もし“出入り口”があるなら、空白の多い方だ。
『ノワール。先ほどの影から検出された波形ですが――』
「翻訳できたか」
『いえ。単語として成立していません。ただ、パターンが……人間の“思考ログ”に近い』
「思考ログ?」
『はい。
脳波パターンから抽出された“内言”――人が心の中で自分に向けて喋る言葉――に似ています。
たとえば、こういうものです』
リネアが短く息を吸う気配。
次いで、合成された音声が再生された。
『……まだ、出られない……まだ……ここはどこだ……』
声の主は分からない。
男とも女ともつかない、加工されたニュートラルな声。
だが、その響きは、嫌なほど馴染み深かった。
『同様の思考ログ、過去の境界異常案件でも散見されています。
“現場で行方不明になった人間”の最終思考が、異常空間の表面に焼き付いているケースです』
「なら、あれは誰かの“最期”の残滓かもしれないってわけか」
『可能性はあります。
あるいは、塔自身が作り出した“模造の思考”か』
影が、僅かにこちらへ歩み寄る。
足音はない。
床も軋まない。
ただ、一歩ごとに、空間のノイズが微かに濃くなっていく。
「不用意な接触は避ける。別ルートを探す」
そう言って身体を反転させかけた、その瞬間。
視界の右半分に、別の光景が割り込んできた。
雪原。
灰色の空。
オーロラが揺れる極地の空――ヘリオスⅢの北極圏。
そこに、防護スーツ姿の男が立っている。俺だ。
『……ノワール。視覚ログに“二重化”が発生しています』
「ああ、分かってる。こっちでも見えてる」
片方の視界は塔の内部。
もう片方は、塔の外、まだ侵入前と思われる地点。
どちらも“今”のような実感を伴っている。
「時間軸の分岐か、座標の複製か……」
『脳波パターンも二重化しています。
塔が、あなたの存在を“二つに分けようとしている”可能性が高い』
「どっちが本物で、どっちが偽物だ?」
『現時点では判別不能です。どちらも“黒須蓮”として整合性を持っている』
自分が二人いる、という状況は、訓練で何度もシミュレーションしてきた。
だが、実際に体験すると、訓練では想定されていない種類の不快感が、胃の底に沈殿する。
俺はあくまで俺だ。
そこに「もう一人」を許す余地はない。
だからこそ、境界異常に対処する仕事を選んだ。
世界のどこかで、複数の自分が歩き始める未来を、職業として潰して回るために。
その俺を、塔が真っ先に“分裂”させようとしている。
「悪趣味な装置だな」
俺が吐き捨てると、リネアが、ごくわずかに息を呑んだ気配を見せた。
『ノワール。影が、あなたの“もう一人”の方に向かっています』
塔の外にいる俺――ヘリオスⅢの雪原に立つ方――へ、さきほどの影が手を伸ばす。
触れた瞬間、外側の視界が白く崩れた。
それと同期するように、塔内部の空間が僅かに震える。
【観測データ重複/解像度低下】
【現地調査官の二重存在/統合フェーズ移行】
ヘルメット内に、警告ウィンドウがいくつも浮かび上がる。
『……ノワール。塔は“どちらか一方”を選んだようです』
「ここに残った俺の方か、外で塗り潰された俺の方か」
『あなたの主観から見れば、“ここ”が継続です。
ただ、外側のログも完全には消えていません。
塔の内部に“取り込まれた”と見るのが妥当でしょう』
つまり、塔は俺を“素材”として扱い始めた、ということだ。
黒い柱の奥、空間がひらけた先に、何かが見える。
巨大な球体。
外殻は塔の外壁と同じ黒。
だが表面には、微細な光の線が走っている。
近づくのを待っていたかのように、その線が、俺のバイタル表示と同期して点滅を始めた。
『……心拍数、モニタ上では正常ですが、塔内部の球体とリンクしているようです』
「塔が、“俺の身体の設計図”を眺めてるってことか」
『はい。
……ノワール。その球体の表面に、人間の言語らしきパターンが出現しました』
ヘルメット内に、別窓で球体表面の拡大映像が表示される。
そこには、見慣れた文字列があった。
【現地調査官:黒須蓮】
【適合率:89.4%】
【転写対象:承認】
背筋を冷たいものが這い上がる。
俺は静かに息を吐き出した。
「……随分と、勝手に話を進めてくれる」
『ノワール。上層部が事前に把握していた可能性があります。
“この塔は、特定の人間を狙っている”という事実を』
「でなきゃ、オペレーター制限なんてわざわざ付けない、か」
俺の視界の隅に、任務開始前に見た指示文が浮かぶ。
【目的:塔内部の“転写先”を確定】
【手段:現地調査官の生体データ接続】
【備考:オペレーターの介入を最小限に】
これは、「もし帰ってこなくても構わない」という言い換えだ。
現地調査官一人を、塔の向こう側へ放り込み、そこで何が起きるのかを記録する――
それだけが目的の任務設計。
俺自身が、自分の過去を嫌悪してこの仕事を選んだように、
機構という組織もまた、自分たちの世界を守るためなら、個人を簡単に切り捨てる。
『ノワール。脳波パターンに“外部からの侵入”が観測されています』
「侵入?」
『はい。塔の球体から、あなたの脳に直接、“何かの波形”が流れ込もうとしている』
その言葉とほぼ同時に――
頭の中に、別の映像が流れ込んできた。
黒煙に覆われた街。
崩れ落ちたビル群。
サイレンと悲鳴と、耐えきれないほどの静寂。
ここではないどこか。
だが、俺はその景色を知っている。
かつて俺が生きていた地球の一角。
境界異常に襲われ、丸ごと“繰り返しの箱”に飲まれた区画――
そこで俺は、家族を置き去りにして逃げた。
あのとき、俺だけが助かった。
妹の手を振りほどいて、あの光の向こう側へ背を向けた。
助けを呼ぶ声を無視して。
その記憶が、その罪悪感が、塔の内部に大きく引き伸ばされて映し出される。
球体の表面が、俺の過去をなぞるように波打った。
『……ノワール。あなたの感情指数が急上昇しています』
「塔が、“俺の地獄”を覗こうとしているだけだ」
俺は奥歯を噛みしめる。
家族を見捨てて生き残った。
その事実から目を逸らさないために、俺は現地調査官になった。
境界異常に飛び込むたび、あのとき救えなかった「誰か」を仮想の対象にして、
その代わりに世界のどこかを救うことで、釣り合いを取ろうとしている。
塔は、その構造を嗅ぎ取った。
そして、利用しようとしている。
『ノワール。球体から発せられる波形が、“あなたと似たパターン”に変化しました』
「似たパターン?」
『はい。
黒須蓮に酷似した脳波。
ただし、感情のピーク位置と、その“方向性”が違う』
「……別の俺、か」
球体の表面に、ぼんやりと人影が浮かぶ。
顔は見えない。
だが、背格好も姿勢も、俺と同じだ。
それでいて、纏っている空気が決定的に違う。
あちらには、“後悔”がない。
罪悪感も、自罰も、自己の切り売りもない。
ただ、世界の変化を受け入れて、生き延びた人間の、静かな安定だけがある。
塔は、俺という素材から、“別の可能性”を生成している。
境界異常の中で家族と共に死んだ黒須蓮。
そもそも現地調査官にならなかった黒須蓮。
あるいは、誰も見捨てずに皆を救った黒須蓮。
それらの枝分かれした未来のうち、どれか一つを選び取り、
“この世界の黒須蓮”を置き換えようとしている。
「……リネア」
『はい、ノワール』
「塔は、“俺の代わり”を作ろうとしてる」
『……解析結果とも一致します。
塔は、“人間の時間軸ごと”コピーし、そこから最適解を抽出する装置かもしれません』
「じゃあ、ここで立ち止まれば、“最適な黒須蓮”が地球側に送り返されるかもしれない」
仕事に迷いもなく、
過去の後悔もなく、
ただ効率よく任務を遂行する、“より良い現地調査官”。
機構にとって、それは魅力的な戦力だろう。
だが、その瞬間、今ここにいる俺という個体は、“不要な試作品”として処分される。
『ノワール。球体の内部で、転写プロセスが進行を開始しました。
このままでは――』
「先に、“出口”を見つける。
俺は塔に最適化される気はない」
黒い球体の背後――
そこに、空間の密度が不自然に低い場所がある。
情報が薄い。
塔の“視線”が届いていない穴だ。
『東側二十度、距離十六メートル。
そこに位相の“薄い場所”があります。恐らく、脱出経路です』
「了解した」
俺は身体を反転させ、白い砂を蹴った。
直後、透明な俺が、視界の端で動いた。
さきほどまで静止していた“コピーたち”が、同時にこちらへ振り向く。
『ノワール。透明体が一斉に動き始めました!』
「塔が、“原本の逃走”を検知したか」
透明な俺たちは、一歩ごとに輪郭を濃くしていく。
動きはぎこちないが、速度は速い。
俺の身体能力をベースにしている以上、追いつかれるのは時間の問題だ。
俺は腰のユニットを操作し、転写耐性フィールドを局所的に前方へ展開した。
見えない壁が空間に張り巡らされ、走路を囲う。
透明な俺が、その壁にぶつかる。
弾かれ、揺らぎ、壁の形状をなぞるように変化する。
「フィールドの波形を学習してやがる……!」
『ノワール、時間がありません。
脱出ポイントまでの最短ルートをルート表示します。
障害物は“あえて無視”してください』
「無視?」
『はい。
塔の空間は、“認識したもの”から固定されます。
ならば、あなたが“認識しきる前に”通過すれば、まだ塔の側も決めきれない』
認識と現実の順序が逆転した世界。
境界異常の中では、そういう理屈の方が通りがいい。
「……了解した。前は見ない」
俺は視線をヘルメットの内部表示に固定し、
リネアが示した矢印だけを頼りに走った。
足元が何で構成されているかは考えない。
頭上に何があるかも考えない。
ただ、矢印の指す方向へ、身体を投げ込む。
横合いから、透明な腕が伸びてきた気配がした。
それでも、見るな――
訓練で叩き込まれた「不干渉プロトコル」を、ここでそのまま実行する。
『……あと八メートル……六……三……!』
矢印が、空間の一点を示して弾けた。
そこには、何もない。
穴も扉も見えない。
ただ、白い砂と黒い柱の境界が曖昧になっている場所があるだけだ。
俺は躊躇なく飛び込んだ。
身体全体が、冷たい膜を裂いた感覚に包まれる。
重力方向が三度ほど入れ替わり、視界が反転し――
次の瞬間。
風が、戻ってきた。
潮の匂い。
低空を流れる雲海。
遠くで雷が鳴る音。
俺は、塔の外側に立っていた。
『……ノワール。位置を確認しました。
塔外、南太平洋上空。あなたは――』
「生きてる。俺は、まだ“こっち側”にいる」
黒い塔は、静かに収縮を始めていた。
巨大な迷路は自壊し、黒い球体も光を失っていく。
塔全体が、まるで満足げに、眠りにつく前の息を吐いているようだ。
『塔からの放射は急速に低下。
境界異常レベルは階級Ⅲへ降下、さらに……消失に向かっています』
「転写は終わった、ってことか」
『はい。ただし、“何を”“どこへ”転写したのかは、まだ不明です』
上層部は、これで満足するのだろう。
現地調査官一人を塔に送り込み、内部で起きた現象のログを回収し、
「貴重なデータが得られた」と報告書に記す。
その裏で、塔の向こう側に“何か”が生成されていたとしても、
しばらくは誰も気づかない。
『ノワール。……上層部からの回線が入りますか?』
「いや、今は切っておけ。報告は後でまとめてやる」
短い沈黙ののち、リネアが小さく「了解しました」と答えた。
『では、撤収ルートを案内します。
周辺の空間はまだ完全には安定していません。
安全ルートを優先します』
「頼む」
俺は塔を一度だけ振り返る。
黒い構造物は、既に半分近くが霧散していた。
あの内部に、まだ“別の俺”がいるのかどうかは分からない。
だが、ひとつだけ確かなのは――
「リネア」
『はい、ノワール』
「塔は、“黒須蓮”という素材に、具体的な興味を示していた。
その情報を、上層部は事前に掴んでいた可能性が高い」
『……同意します。
今回の任務は、“境界異常の対処”というより、“封印された情報へのアクセス”が主目的だったように見えます』
「なら、次に現れる異常は、もっとあからさまだ」
機構が隠している何かと、境界異常の動きが同期し始めている。
そう感じるには、今日一日の出来事で十分だった。
『……ノワール』
「何だ」
『先ほど塔内部で観測された“別の脳波パターン”ですが……
完全には消えていません。
バックアップとして機構側にコピーされた可能性があります』
「俺の“別の可能性”が、機構のデータベースに保管されているかもしれない、ってことか」
『はい。
そしてそれは、上層部の意思ひとつで、いつでも呼び出せる状態にある』
もう一人の黒須蓮。
後悔のない俺。
罪悪感を持たない俺。
あるいは、境界異常にもっと“協力的”な俺。
そいつが、どこかで目を覚ます未来を想像し、俺は小さく息を吐いた。
「……機構が何を企んでいようと、俺の仕事は変わらない」
『現地調査官として、境界異常に向かうこと』
「ああ。
上から何を隠されていようと、この世界の綻びを縫い合わせるのが、俺と――」
一瞬だけ言葉を選び、それでも口にする。
「――俺と、お前の仕事だ」
回線の向こうで、リネアが微かに息を呑む気配があった。
『……はい。
私はオペレーターとして、ノワールの任務を支援します』
十分だった。
それ以上の言葉は、境界異常の餌になるだけだ。
「撤収が終わったら、少し眠らせてくれ。
どうせすぐ、次の異常が顔を出す」
『その通りです。……実は、すでに新しい警告が上がりつつあります』
「場所は?」
『地球北大西洋。
詳細な座標と発生時刻は、帰還後に共有します』
塔は崩れ、雲海の向こうへ沈んでいく。
その一方で、別の場所に新しい綻びが生まれつつある。
世界は、いつも通りだ。
異常は常にどこかで起きていて、
俺はそこへ向かい、リネアは上から見守る。
塔の底で見た“別の俺”も、
上層部が隠している意図も、
まだ全容は分からない。
だが、それらはすべて、次の現場へ続く伏線に過ぎない。
『ノワール。回収ドローンが接近中。
あと三十秒であなたの位置に到達します』
「了解。……リネア」
『はい』
「今日も、いい仕事だったな」
少しの沈黙のあと、落ち着いた声が返ってくる。
『はい。ノワールも、良い仕事でした』
それだけでいい。
会わない相棒には、それだけのやり取りで十分だ。
塔の向こう側で、何が作られていようと。
機構の上層で、どんな密談が交わされていようと。
俺は、現地調査官として、次の異常へ向かう。
世界の綻びは深く。
その縫い目の一つ一つに、俺とリネアの声が、静かに結び目を作っていく。
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