第2話 〈前編〉立体迷路
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地球軌道ステーション〈アイギス〉の第七管制室には、常に静寂が満ちている。
氷見紫苑――コードネーム〈リネア〉は、薄闇の中でコンソールの照明だけを受けて立っていた。
先ほどまでノワールの回収作業を見届け、数時間の休憩を取ったばかりだ。
しかし、休憩は必要最低限。
リネアの端末にはすでに新しい警告ウィンドウが点滅している。
【境界異常:階級Ⅲ → 階級Ⅱに上昇】
【対象領域:地球南太平洋上空】
【発生時刻:00:14(協定地球時)】
【現地調査官派遣予定:ノワール】
予測通りだった。
境界異常は連鎖する。
ひとつの継ぎ目を縫い合わせれば、別の綻びが顔を出す――それが、彼女たちの仕事の本質だ。
リネアは深く息を吸い、音声回線の特別優先チャンネルを開く。
「こちらリネア。ノワール、起床していますか?」
遅延ゼロの即時応答。
機構の回線でこれほど早く返ってくるのは彼ぐらいだ。
『ノワールだ。リネア、次の任務か?』
「はい。詳細を共有します。
起床直後で申し訳ありませんが、状況が急変しています」
『気にしない。任務だ。……共有してくれ』
リネアは手元のパネルを操作し、映像を送信する。
ノワールが今いる簡易宿舎の壁に、巨大な球形の構造物が映し出される。
地球の上空、およそ三千メートル。
海雲の上に、黒い“立体迷路”が浮かんでいる。
「コードネーム〈タワー・ノット(塔の結び目)〉。
初期観測では巨大構造物ですが、質量はほぼゼロ。
外壁は光を吸収しますが、内部は周期的に光っています。
内部は人類が認識できない三次元座標で構成されている可能性があります」
『三次元座標……この世界の座標軸とは別のものが存在している、ということか』
「はい。
構造解析班によれば、“座標の上書き”が発生しているとのことです」
『上書き……この世界の位置情報を別の法則で塗りつぶしている、という意味か』
「そう推測されています。
塔の内部に進入した観測ドローンが三機、回収不能となりました。
そのドローンたちから送信された最後の映像は……“別の場所”でした」
『別の場所?』
「はい。
海上の空間ではなく、まるで……地球内部から空を眺めているような映像でした」
ノワールが短く息を吸う音が聞こえた。
だが動揺しているわけではない。ただ、理解に集中している。
『つまり、その塔は空間座標の書き換えを行っている。
内部に入った物体を、別の座標系に転写する……という推測でいいのか』
「現状では、そのように考えるのが妥当です」
リネアの指が停止する。
画面に新たなメッセージが浮かび上がる。
【上層部指示:任務目的変更】
【目的:塔内部の“転写先”を確定】
【手段:現地調査官の生体データ接続】
【備考:オペレーターの介入を最小限に】
リネアは無意識に一度まばたきをした。
珍しい。上層部からの「オペレーター制限」が明記されるのは。
「……ノワール」
『ああ、見ている。……オペレーター制限、か。珍しいな』
「はい。上層部は何らかの情報を秘匿していると考えるべきです」
『理由の推測は?』
声色は変わらない。
だが、心拍数がわずかに上昇したのがモニタに表示される。
「――塔の転写先が、“別の世界”である可能性を上層部が掴んでいるのかもしれません」
『別世界か……』
ノワールは短く息を吐いた。
『それで、現地調査官だけを先に送るつもりか。
リネアの解析を外せば、危険は全て現場持ちになる』
「そうなります。
上層部の真意は不明ですが、ノワールに危険が集中することは確実です」
『危険は仕事だ。気にしない』
平然とした声。
だが、その言葉がリネアの胸に鈍い痛みとして響く。
「……では、任務承認を進めます。
ノワール、装備を確認しながら進行しますので、カメラをオンに」
『了解。オンにした』
画面にノワールが映る。
深灰色の調査スーツに、転写耐性フィールドを備えた特別装備。
軽量化されているはずなのに、重力が歪む塔への突入を前提とした設計で、見る者に圧迫感を与える。
「心拍数、正常。精神指数も通常範囲です。
……ノワール、本当に大丈夫ですか?」
『問題ない。
むしろリネアが上層部の“制限”を気にしているように見える』
「気にしています。
上層部は、私を外して任務を進めようとしています。
それは、危険の再割り当てを意味します」
『だが、リネアはオペレーターだ。規定上、現場には出ない。
ならば、危険は俺が受けるのが筋だろう』
「……」
沈黙。
言葉ではなく、回線上の静寂が胸に落ちていく。
『リネア』
「はい」
『俺は、現地調査官としての任務を遂行する。
上層部が何を隠そうとしていようと、俺が行くべき場所は変わらない。
だから、リネアは“いつものように”俺を導いてくれ』
その「いつものように」に、理由の言葉はいらない。
会わない。
触れない。
だが、命をつなぐ声だけは、決して手放さない。
「……了解しました。ノワール。
私はオペレーターとして、あなたの任務を支援します」
『助かる』
その一言だけで、恐怖の形が変わる。
リネアの指が軽やかに動き、塔への降下ルートが画面に展開される。
「では、塔の最外殻に降下します。
ノワール、地表への到達予測は三分後。
落下衝撃はフィールドで軽減されますが、接触時に景色が“反転”する可能性があります」
『反転?』
「はい。
塔に近づく物体は、自身の上下方向を一時的に失う可能性があります。
落下の際には、視界が反転しても体勢を崩さないようにしてください」
『了解した。……リネア』
「はい」
『もし俺が転写されて戻れなくなったら――』
「言わないでください」
思わず口に出てしまった。
規定違反ぎりぎりの感情をのせて。
だがノワールは、少しだけ声を柔らかくした。
『……任務上の確認だ。
戻れなかった場合の対応を、オペレーターが把握しておく必要があるだろう』
「はい……分かっています。
その場合、私は別の現地調査官の担当に移ります」
『それだけか?』
「はい。それだけです。
私はオペレーターで……ノワールは現地調査官です。
それ以上でも、それ以下でもありません」
自分でも、ほんの僅かに声が震えたのが分かった。
『……そうだな』
ノワールの声は、いつも通りの静かさを取り戻していた。
『なら、任務を続けよう。
塔まであと一分だ』
「了解です。映像を最大化します」
雲海を抜けたノワールの視界に、黒い巨大構造物が迫る。
無数の通路が縦に横に絡み合い、まるで宇宙に浮かぶ立体の“迷宮”だ。
表面は光を吸い、内部は光を漏らしている。
まるで巨大な、逆転した脳の形。
「ノワール、着地衝撃に備えてください。
残り十秒……五秒……二、一――着地」
衝撃が視界を揺らし、次の瞬間――
世界が反転する。
上と下が入れ替わり、空が足元に来たような錯覚。
塔の内部が、白黒の光の粒で満たされた“反転世界”として広がっている。
『……リネア、無事だ。着地成功』
「よかった……。
映像、少し乱れていますが、問題ありません。
では、塔の内部へ進入をお願いします」
ノワールは塔の迷路の入口に近づく。
入口と言っても、ただの「隙間」だ。
壁が裂けているのではなく、空間そのものが途切れている。
『リネア、内部に“音”がある』
「音?」
『俺の足音じゃない。
誰かが歩いているような……いや、歩いてはいないな。
“動きの残響”と言った方がいい』
リネアの背筋が冷たくなる。
「ノワール、そこから先は公式に“未測定領域”です。
気をつけてください」
『了解した』
塔内部に一歩踏み込む――その瞬間。
ノワールの視界が二つに割れた。
ひとつは塔の内部を歩く自分。
もうひとつは――塔の外で静止している自分。
リネアのコンソールにも同時に警告が走る。
【観測データ重複】
【現地調査官の“二重存在”を検出】
【転写開始の兆候】
「ノワール! 聞こえていますか!?」
『……聞こえている。
だが、俺の視界が“二つ”ある』
「二重存在が始まっています!
塔がノワールを“読み取り”、別の座標へ写し取ろうとしている!」
『リネア、塔の奥から“何か”が来る』
「何か、とは?」
『……影だ。
人影に似ているが……顔がない。
姿勢だけが、はっきり俺に向いている』
リネアの指が震える。
異常現象の記録をすべて知っている彼女でも、これは未知だ。
「ノワール、退避してください! その影は――」
『遅い、リネア。……もう触れられた』
「ノワール!!」
影が、ノワールの“もう一つの身体”へ触れる。
その瞬間、塔全体が光を撒き散らし――
視界が、真っ白に染まった。
「ノワール! 応答してください! ノワール!!」
返事は――ない。
代わりに、上層部の緊急回線が強制的に開かれる。
『オペレーター・リネア。
現地調査官ノワールは転写領域に入った。
任務続行のため、あなたは回線を切断せよ』
「そんな――できません!」
『これは命令だ。境界異常の解析に、あなたの情動は不要だ』
リネアは歯を噛み、唇を噛み、震える指を必死に抑える。
だが――その瞬間。
真っ白なノイズの中から、微かな音が戻ってきた。
『……レ……ネア……』
「ノワール!? 聞こえていますか!!」
『……まだ……いる……塔の……中……』
声は途切れ途切れ。
転写された座標からの、ぎりぎりの微弱信号。
『……リネア……聞こえるか……』
「聞こえています! 絶対に、回線は切りません!!」
そのとき、リネアは悟った。
上層部は――
ノワールが“帰還しない”前提で、この任務を設計している。
塔の転写先を“人間一人で確認させ”、
帰還不能ならばそのまま「記録だけ得る」。
それが、今回の指示の真意だった。
「ノワール。
どうか……生きて戻ってください。
あなたは現地調査官で、私はオペレーターです。
どれだけ世界が乱れても、その関係だけは揺らぎません」
『……リネア。……分かった。
必ず、戻る』
塔の内部で、ノワールは一歩踏み出す。
世界が逆回転し、白が黒へ、時間が縫い直されていく。
その奥で、彼を待つものが何であれ――
リネアの声だけが、彼の“正しい座標”を示す唯一の灯だった。
上層部の不穏な指令が迫る中、
会ったことのない相棒は、
互いの声だけを頼りに、次の異常へと進んでいく。
世界の綻びは深く、塔はまだその全容を明かしていない。
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