第13話 記憶空白域(メモリ・ホワイトゾーン)そこには最初から何もなかった
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逆再生気象帯から戻った翌日、
俺は妙な倦怠感に包まれていた。
身体ではない。
思考の深い部分に、何かが“抜けている”感覚。
考えようとすると、
思考そのものが“滑って”しまう。
そんな最悪の状態でまた任務が来た。
降下艇の中でヘッドセットを調整する。
『こちらリネア。ノワール、音声チェックお願いします』
「正常だ。都度の状態も問題ない」
『ありがとうございます。……ですが今日は、
私の側に解析班もついています。
今回の異常は――影響が強いからです』
「内容は?」
『“記憶の抜け落ちた空白地帯”が発生しています。
その区域に入った者は、
“区域に関する記憶を失う”のではなく――』
リネアが一拍置いた。
『“区域に来た事実そのものが最初から存在しなかった”
という状態になります』
事実そのものが消える。
記憶障害ではなく、“歴史の欠落”だ。
『すでに現地調査隊員が三名消えています。
全員の足跡は区域へ入っているのに、
周囲の仲間は“隊員が来ていない”と証言しています』
「足跡はあるのに、隊員が来た記録は存在しない……」
『はい。
“来たはずの人間が来なかったことになっている”
という矛盾した状態です』
「行方不明者の特定は?」
『ログには残っています。
ただし彼らの“個人情報データベース”そのものが消失しています』
「個人情報……?」
『はい。
名前、顔、所属歴、家族構成……すべて。
“最初から存在しない人物”のようになっています』
「……それはもう、消えたんじゃない。
存在が、塗り替えられている」
『ノワール……どうか慎重に』
降下艇が地面へ接触した。
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■記憶空白域 ― “最初から空白の世界”
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現場に降り立つ。
そこは平凡な街外れの草原地帯だったが、
空気の密度が妙に軽い。
音が薄い。
世界の情報が欠けている。
(……ここだけ、現実が薄い)
地面には、足跡が残っていた。
靴跡が三方向へ続いているが、
どれも一定地点で“ぷつり”と途切れる。
まるで足跡の“先”が、
最初から存在しなかったかのように。
『ノワール、そこからが“空白域”です』
「記憶を失うタイミングは?」
『“一定距離に近づいた瞬間”です。
観測機器は正常を記録しますが――
人間の認識だけが“その区間の出来事を保持できません”』
「保持できないというより……
そもそも書き込まれないんだろうな」
『その解釈がもっとも近いです』
俺は足跡が消える地点へ近づいた。
視界の端が――滲む。
輪郭が曖昧になる。
森の音が遠ざかる。
脳が“状況を記録するのを拒否している”。
『ノワール、区域境界です。
ここから先は【記憶が上書き不能】になります』
「オペレーターの声は?」
『私の声はあなたのニューロ回路へ“直結”されます。
記憶加工はされません』
「なら進む」
足を踏み入れた瞬間。
世界から“ひとつの情報”が消えた。
どんな情報だったのか――
思い出せない。
(……まずいな)
意識にはあるが、
その情報を思い出す“参照先”が消されている。
『ノワール、忘れてはいけません。
あなたは【記憶が削られる世界にいる】んです』
「分かっている。……にしても嫌な感覚だ」
『区域内部では“自己の歴史”が剥がされるような現象があります。
どうか、自身の基礎情報を定期的に確認してください』
「俺の名前は?」
『黒須蓮。
現地調査官。
一人称は“俺”です』
「助かる」
草原は静かだったが、
“静かすぎる”。
風の揺らぎの記憶が断片的に欠落し、
足を踏む音も“聞こえなくなる瞬間”がある。
世界が“録画されていない空白区間”を含んでいる。
歩いていると、突然。
目の前の地面が――黒く空いた。
「……穴?」
違う。
そこに“何があったのか”を、
俺は記憶していない。
穴かもしれないし、
岩かもしれないし、
ただの草原だったのかもしれない。
だが“その場所の情報を脳が保持していない”。
『ノワール、空白域特有の現象です。
事象が存在していても、“記憶が書かれない”ため――
目が捉えた世界が空白になります』
「恐ろしい現象だな」
さらに奥へ進む。
地面に小さな金属片が落ちていた。
俺はそれを拾おうと――
――その瞬間、手に何を持っているかが“分からなくなった”。
見えている。
触れている。
だがそれが“何であるか”を記憶できない。
『ノワール、その金属片は“行方不明者のバッジ”です!
記憶空白域では、拾った物の意味がすぐに消えます!!』
「分かってる。……だが厄介だ」
区別はつかないが、
俺は装備袋にしまった。
“持ち帰れば、意味が戻る”。
そう信じるしかない。
そのとき――
視界の端に“人影”が見えた。
「行方不明者……か?」
『映像解析します……いえ、彼女は“影”です。
記憶が剥がされ続けているため、
存在の輪郭が“曖昧”になっています!』
その影の女性は、ゆっくりとこちらを見た。
だが“顔”が分からない。
視覚上は見えているはずなのに――
脳が“顔を記録しない”。
「……話せるか?」
「……あなたは……だれ……?」
かすれた声。
意味が欠落している。
言葉の構造の半分が失われている。
『ノワール、彼女は“自己情報”を失っています。
本来の名前も、家族も、任務も……すべて空白です』
「彼女の意識を引き戻す方法は?」
『“今この瞬間の出来事”を、彼女に繰り返し提示してください。
記憶空白域は“現在の事象”だけは書き込めます』
なるほど。
未来でも過去でもなく、
“いまここで起こったこと”だけが記録される。
俺はしゃがみ込み、彼女の目を見た。
「お前は今、俺といる。
俺は黒須蓮だ。
お前は行方不明になっていた。
今は俺が助けに来た。
分かるか?」
彼女は震える声で言った。
「……いま……あなた……?
それは……いま……?」
「ああ。いまの事実は消えない」
その瞬間、
彼女の輪郭が少しだけ“濃く”なった。
『ノワール、成功です。
“いまの出来事”は空白の中でも書き込まれます』
「なら、歩けるか?」
「……はい……あなたが……いるから……」
彼女は立ち上がった。
だが“数十秒前の記憶”が抜ける。
だから常に今を更新していく必要がある。
『ノワール、出口まで誘導します。
彼女の意識を“断続的に現在へ繋ぎ止めて”ください』
「任せろ」
歩くたびに、
草原の記憶が消える。
地形は存在しているのに、“意味”が記録されない。
彼女は不安げに言った。
「……どこ……ここ……?」
「俺たちは出口へ向かっている。
お前は俺と歩いている」
「……いま……わたしは……歩いている……?」
「そうだ。それを忘れるな」
彼女は震えながら頷いた。
『ノワール、もう少しで領域外です。
ですが最後の境界が“急激に記憶を奪う”ので注意してください』
「急激?」
『はい。
一瞬で“ここに来た数分間がすべて白紙になる”可能性があります』
最後の白紙化。
領域の端にある記憶の“断層”。
「くぐり抜ける方法は?」
『強烈な“現在の出来事”を叩き込むことです。
記憶の消去よりも早く彼女の意識に“今”を刻んでください』
「……分かった」
境界が近づく。
世界が白い。
空白が溢れ、
視界がゼロへ近づく。
その瞬間――
俺は彼女の手をしっかりと握った。
「お前は今、俺の手を握っている。
それだけ覚えていればいい。
他は全部忘れて構わない。
だが――これだけは忘れるな。
“俺がここにいる”」
彼女は涙をこぼしながら頷いた。
白い世界を抜けた瞬間。
記憶の断層が、
彼女の過去数分の記録を消そうと襲いかかる。
「今を見ろ!!
俺を見ろ!!
今だけを覚えろ!!」
彼女は俺の手を握り返した。
その瞬間、
空白域を抜けた。
記憶の書き換えが止まった。
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■任務終了
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領域外に出ると、
彼女の記憶は安定した。
過去の多くは失われたままだが、
“今”の積み重ねは取り戻せる。
降下艇に乗り込むと、
リネアが静かに息を吐いた。
『……ノワール。
本当に、よく戻ってきてくれました』
「戻ると言っただろう」
『ええ。
ですが記憶空白域は……あなたの“存在の根”に影響する異常です』
「俺の根、ね……」
『ここ最近の異常は、
“あなた自身”を揺さぶる方向に偏っています。
……気づいていますか?』
「気づいている」
外側の層。
俺の影の遅れ。
塔の転写。
逆流する時間。
言葉を話す電磁波。
すべてが俺を“外側”へ引っ張ろうとする。
『ノワール……あなたは“今の世界の人”です。
どうか、それを忘れないでください』
「忘れない。
俺は……俺だ」
外側が何を求めようと、
ここに俺がいる限り――
それが唯一の真実だ。
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