9.カークランド男爵夫人 sideセオドア
sideセオドア
使用人たちが報告に行ったのだろう。
しばらくすると、エマの母であるカークランド男爵夫人が足早にやってきた。その顔には動揺と怒りが入り混じり、普段の落ち着いた優雅な表情はどこにも見当たらなかった。
部屋に到着した彼女は、扉を開け放ち、中の様子を確かめた。その視線の先にあったのは、涙を浮かべた娘――エマの愛らしい金髪が微かに揺れ、小さな手で顔を覆ってすすり泣く姿だった。
「まあ! 一体どういうことなの!」
夫人の声は張り詰め、室内の空気をさらに緊張させた。顔色を変え、優雅な立ち居振る舞いも忘れた様子だ。きらびやかな装飾が施された長いドレスが床をこする音と、急ぎ足で鳴るかかとの音が響く。
それは無理もない話だ。お茶会という社交の場で、誰よりも大切に育てている娘が泣かされるなど、名誉に関わる一大事である。
彼女の怒りは、部屋の温度を一瞬にして変えるほどの圧力を持っていた。
しかし、男爵夫人は冷静さを取り戻すよう深く息を吸い込み、優し気な態度で口を開いた。
「 エマ、あなた、泣いているの?」
カークランド男爵夫人の声が、冷たい空気の張り詰めた部屋に溶け込むように響いた。
「申し訳ありません。これは……私の婚約者に、きついことを言われてしまい……。せっかくご招待していただいたのに……」
私は、声を震わせながら答える。
エマの瞳からは涙がぽろぽろと落ち、頬を濡らしていく。
見かねた夫人は、ゆっくりとエマのそばへ近づき、彼女の肩にそっと手を置いた。
「いったい何が……ああ、可愛いエマ。どうか私に教えてちょうだい」
夫人は心配そうな表情を浮かべながら、エマをしっかりと抱きしめた。その腕は暖かく、エマの小さな体を包み込むようだ。エマはその胸の中で一度大きく息を吸い、言葉を絞り出した。
「私……私、セオに婚約者がいるのはわかっているのですが、それでも好きになってしまったのです。それを、リディ様に……。でも、お母様、私、妻になることが叶わずとも、愛人でもいいのです。どうしてもそばにいたい……お願いお母様、許してください!」
エマの声は涙に滲み、嗚咽混じりで途切れ途切れだった。
その必死な訴えに、夫人の顔は驚きと困惑が入り混じったものに変わる。
「モンクレア伯爵令息、どういうことですの? あなた、婚約者がいながらエマに手を出したと?」
夫人の視線が鋭く私を捉える。その鋭さに瞬き一つさえできず、立ち尽くしてしまった。
私は、大きく息を吸い、意を決して話す。
「エマとはずっと友人でした。長い間、仲の良い……けれど、今日、お互いの思いを打ち明けてしまったのです……」
その言葉を聞いたエマはますます涙を流し、夫人の腕の中で顔を覆った。
「お母様! 私が悪いのです! セオよりも身分が低い私が、我慢しきれなかったから……。セオもリディア様もずっと大人の対応をしてきたのに、私だけ……私だけ、気持ちを抑えられなかった……」
エマの声は、か細く涙が枯れることはなかった。
男爵夫人は深く息をつきながら、もう一度私に向き直る。その眼差しには冷たい決意が宿っていた。
「モンクレア伯爵令息、エマを愛人に、ですって? そんなこと、断じて許せませんわ。エマは、このカークランドの名を背負う、大事な貴族の娘なのです。わかってくださるでしょう?」
夫人の声は静かでありながら、毅然としていた。その言葉に、エマが必死に叫び声を上げる。
「お母様! そんなこと言わないで……!」
「黙っていなさい、エマ。モンクレア伯爵令息、どうか諦めてくださいませ」
諦めろ、と? 胸の内でその言葉が何度も反響した。
エマのまばゆい笑顔を、優しい瞳を、愛らしい声を諦めろというのか? 楽しかった日々が、すべて消え去るというのか? 私は、ぎゅっと拳を握りしめながら、答えを飲み込むことができずにいた。
部屋の中には、張り詰めた空気が広がる。
涙と苦しみ、そして言葉にならない思いが渦巻いていた。




