38.一人の恋が終わる
sideセオドア
あの日から、部屋に閉じ込められ、父にも兄にも会うことができない。もちろんエマにも。
部屋の外からは屋敷の慌ただしい気配が伝わってくる。廊下を行き交う使用人たちの足音、誰かが低く交わす短い言葉、扉の向こうで指示を飛ばす声——事態がただ事ではないことは明らかだった。
おそらく、父も兄も対応に追われているのだろう。
この状況が、もしかすると私にとっては、幸いなのかもしれない。きっとエマは良い報せを待っているはずだ。だが、顔を見て事情を説明すること苦しくてできやしない。
机に視線を落とす。乱雑に積まれた書類と、使いかけのインク壺。
手紙を書こう——エマに。
思い立った瞬間、扉が叩かれた。入ってきたのは侍従で、丁寧に一礼しながら伝言を口にする。
「文官試験を受けるように、と旦那様からのご命令です」
文官試験——リディアがあの時話していた、身分を問わず受けられるという試験のことか。
合格すれば、それなりの地位が得られ、能力次第では爵位を賜ることさえあるという。毎年のように難関で、並の者では到底突破できないと聞く。
「欠員が出たそうです。辞退者が一名」
「……もったいないことをする者もいるのだな」
思わず呟いた。せっかくの機会を捨てるとは。
だが、他人の事情を詮索している場合ではない。今の自分には、そんな余裕などないのだから。
試験対策など、当然何もしていない。なにしろ、これまでは約束された未来があったのだ。今頃は公爵になるための教育が始まっているはずだった。
——いや、次期公爵になるはずだった者が試験を受けるのなら、それ相応の特別な配慮があるかもしれない。
何にせよ、今のままではエマと婚約することすら叶わない。伯爵令嬢となった彼女に見合う立場を得なければ、傍にいる資格もないのだ。
慰謝料——。啖呵を切るように宣言してしまった。
当然、父上が出してくれるはずもない。
父上は公爵家と侯爵家とのつながりを知っていた。
なぜ教えてくれなかったのかと訴えたが、『公爵家から口止めされていた。養子に入るまで、本性を隠すものも多いと聞く。それを危惧したのだろう。まさか危惧通りだったとはな!』と、言われた。
関心を持って調べないお前が悪い、調べずとも婚約者を大切にできなかったお前は、もっと悪い、とも……。
となれば、エマにも今後働いてもらわなければならない。彼女は何ができるだろうか?
母が平民だったのだから、家事は問題なくこなせるはずだ。市井で働くことにも、それほど抵抗はないのではないか。そう、きっと大丈夫だ——
深く息を吐く。
悔やんでいる暇はない。まずは、手紙を書こう。そして、文官試験に合格し、立場を取り戻すことが先決だ。
*****
sideエマ
あの日から、いくら待ってもセオが花束を抱えて会いに来ることはなかった。
夕刻、淡い橙色の光が窓辺を染める中、養子に入った伯爵家に届けられたのは、一通の手紙だった。
侍女が差し出した封書を見下ろす。白い封筒に刻まれた伯爵家の紋章。何故か目の前が暗くなる感覚に襲われながら、震える指先で封を切った。
――嫌な予感がする。
紙を開き、目を走らせる。
『申し訳ないが、公爵家への養子の話が無くなった』
冒頭の一文を読み、呆然となる。
目を疑った。意味が分からない。
いや、本当は理解している。ただ、認めたくないだけ。
視線を落としたまま、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。胸が痛い。まるで体の奥深くを抉られるように。
養子の話がなくなった? じゃあ、次男のセオは? 彼の立場は?
これからどうなるの?
夢見ていた未来が、努力が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
貴族としての立場を、地位を、誇りを、私は守れると思っていたのに。
紙を握る指に力がこもる。次の文を読み進めると、さらに衝撃が走った。
公爵家が――リディアの血縁だったこと、多額の慰謝料が請求されること、このままでは爵位のない、ただのセオドアになること……。
唇を噛み締める。
すべてが狂った。
公爵家が、リディアの血縁。そうであれば、セオが公爵になったあとに愛人になる。今思えば、それでよかったのだ。お母様だってそうして、前妻が亡くなってから正妻になった。
リディアが愛人の存在に心を病み、体を壊し、亡くなった後に私が正妻となる。――そう、それでよかったのに。
愛人の間、セオはたくさんの贈り物をしてくれただろう。生活に困ることもなかった。
今あるのは――何もない、ただの現実。
『文官試験を受けようと思う』
思わず笑いそうになった。冗談でしょう?
文官……。
私は、公爵夫人になるつもりだったのよ。それ以下なんて、あり得ない。
それに、難関の文官試験にセオが受かるとも思えない。
ああ、この先、どんな顔をして友人たちに会えばいいの?
『エマには、働いて一緒に慰謝料を支払ってほしい』
手紙の最後の一文を読んだ瞬間、背筋が凍った。
働く? 私が? こんなことを言う人だったなんて……、恋をしていたセオがどんどん色あせていく。
爵位もない、仕事もない人と結婚するなんて、無理だわ。
……慰謝料は、契約通りセオに払ってもらう。当たり前よ。私が払う義理なんてない。
ああ、お母様の言う通り、選択肢を増やしておくべきだった。セオに義理立てした私が、馬鹿みたいじゃない。
「大丈夫」って、言ってたのに。
それにしても、どうしよう。
視線を宙にさまよわせる。心が焦燥と苛立ちにかき乱されて、まともに思考がまとまらない。
どうしてこんなことに……。
――そうだわ。これは、私が運命に逆らった罰。きっとそう。
やっぱり私の運命の人は、王子だったのよ。最初から、彼に惹かれていたのに。
運命に逆らおうとするから、こんな目に遭うのよ。もっと、自分の直感を、一目惚れを、信じるべきだった。
ええ――王子を狙うわ。
今、私は伯爵令嬢ですもの。今度こそ、本気を出す。
私は、私の望む未来を、絶対に手に入れる。
……ああ、でも、なんてこと。
もう卒業してしまったじゃない。貴重な時間を、無駄にしてしまったわ。セオのせいよ。




