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【完結】恋は、終わったのです  作者: 楽歩


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23.人の心は難しいもの

  日の光がうっすらと差し込む静かな図書室。


 古びた木の本棚が整然と並び、インクと紙の香りがほのかに漂う。


 高窓から注ぐ陽光は床に淡い模様を落とし、時間の流れを一層穏やかに感じさせる。




 テスト期間でもなければ訪れる者も少なく、静寂が支配するその空間に、小さな足音が忍び込んできた。


 扉がわずかに軋み、そっと閉じられる気配。私は視線を上げた。不安げに辺りを見回していたその方は、私の存在に気づくと、安堵したように微笑んだ。




「リディア嬢、また会ったね」


 静かな声が響く。低く柔らかな響きは、この静謐な場所にふさわしかった。この場所で、彼と顔を合わせるのはもう何度目になるだろう。




「ごきげんよう、王子殿下」


 私は本から顔を上げ、挨拶を返した。今日もまた令嬢たちから逃げてきたのね。


 王子殿下とは、図書室で何度か顔を合わせている。最初は遠慮がちだったが、次第に彼もこの場所を気に入り、時折こうして訪れるようになった。




 ──教えた庭のベンチで、魂が抜けたようになっていた時には、思わず笑ってしまったこともある。



 希望を胸に異国へとやってきたというのに、今の彼はまるで迷子の子供のように見える。ダリウスから聞いた話では、彼は自国の王を説得して留学を実現させたらしい。


 目的を果たしたはずなのに、令嬢たちのせいで、どこか居場所を見つけられない様子が哀れだった。




「裏に行かれますか?」


 私はそっと問いかける。




「いや、今日は読みたい本があるから‥‥。誰か来た気配がすれば、行くとしよう」



 王子殿下はそう言いながら、近くの席に腰を下ろし、その後、本棚の方へと軽く視線を向ける。彼の動作は、王族であることを意識させる優雅さを備えていた。



「何を読みたいのです?」


「ああ、国の文化について知りたくて。何かお薦めの本はあるかな?」


「それなら、こちらはいかがですか?」



 私は手元の本を差し出した。革張りの表紙は使い込まれた風合いを見せている。



「……使っていたのではないか?」


「ええ、課題のために使っていたのですが、もう終わりましたので、どうぞ」




 彼は本を受け取り、丁寧にページをめくる。その仕草には、本を大切に扱う人間の癖がにじんでいた。指先が紙の端をそっと撫で、活字を追う眼差しには真剣な光が宿っている。




「リディア嬢は、普段はどういった本を読むのだ?」


「巷で流行っているものには疎く……学問書ばかりですわ」


「そうか。私も読む。歴史書や哲学書などは特に好んでな。『王統記』や『万象の理』は面白かった」


「まあ、私の愛読書ですわ!」




 意外な共通点に、嬉しくなった。学問に関心を持ち、知識を求める姿勢。そういった人と真剣に本の話をする機会は少ない。



「じゃあ、『千年の碑』は知っているか?」


「もちろん。千年間にわたるシリウス帝国の興亡を記した大著ですわ」



 本の内容や学問に対する意見を交わすうちに、私たちの会話は自然と弾んだ。言葉を重ねるごとに、彼が、学問を好み、思索する人間であることを知る。



 王子という身分に構えていたところもあったが、彼の誠実な性格が伝わってきて、私の心も少しずつ和らいでいくのを感じた。






 だが、ふと王子殿下の表情が曇った。





「前に、リディア嬢も人目が気になるときがあると言っていたな」


 


 彼の言葉に、私は僅かに眉を動かした。


 陽の光が窓辺から差し込み、図書室の静けさに影を落とす。




「失礼だとは思ったのだが、ダリウスに聞いた。その……婚約者のことを」


 静かな問いかけに、私は少しだけ目を伏せた。




「構いませんわ。面白い話ではないですが」

 

 声は穏やかに保ったつもりだったが、指先が震えた。




「リディア嬢は、平気なのか?」



 その問いは、私の心の奥に僅かな波紋を広げた。目を伏せたまま、静かに息を吐く。


 平気であるはずがない。だが、その感情を口にすることに、どれほどの意味があるだろう。




「人の心は難しいものです」


 

 苦笑しながら答えると、王子殿下は少しだけ唇を噛んだようだった。彼の瞳に宿る感情は、怒りにも似たものだった。



「……なぜ、リディア嬢を大事にしないのか、理解できない」


 

 彼の低い声が、まるで怒りを滲ませるように響く。その言葉は鋭く冷たい風のように胸を刺した。




「あなたが傷つくのは……嫌だと思ってしまう」



 その言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。



 静かな図書室に、心臓の鼓動だけがはっきりと響くような気がした。彼の瞳に宿るのは、責務や義務ではない。もっと素朴で純粋な、ただ私という人間を気遣う感情。





「……ありがとうございます」


 小さな声で返すと、王子殿下はふわりと微笑んだ。その微笑みは、優しさと同時に、どこか哀しげなものを含んでいるようにも見えた。



 居た堪れなくなり、私は静かに席を立った。スカートの裾がふわりと揺れ、微かな衣擦れの音が静寂を満たす。




「そろそろ帰る時間ですわ。では、ごきげんよう、王子殿下」



 

 王子殿下は何かを言いかけたが、結局、何も言わずにただ頷く。



 

 私は図書室を後にした。



 廊下に出ると、冷たい空気が頬を撫でる。先ほどまでの温かな陽光が、ここでは、どこか遠いものに思えた。




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