15. ハンスの自信作
「おお、よく来たな!」
馬車が止まり、扉が開いた瞬間、差し出された手に気づき、私は少し戸惑いながらもその手を取る。レオナードの温かい掌が私の指先を包み込むと、自然と心が和らいだ。
柔らかな笑顔を浮かべて私の手を取り、エスコートする。
「ハンスが、朝からそわそわしていたぞ」
「ふふ、そうなの?」
彼の言葉に、私は自然と口元をほころばせた。
玄関から続く石畳を歩く。屋敷から漏れる暖かな光と甘い香りが私を包み込むようだった。
屋敷の中に足を踏み入れると、一人の男性が待ち構えていた。ああ、このシェフがハンスね。
彼の表情には嬉しさと少しの緊張が混じっていた。
「お嬢様、お会いしたかった。そして、お待ちしておりました」
ハンスの声とともに視線を奥へ向けると、そこには色とりどりのスイーツが整然と並べられたテーブルが広がっていた。ケーキ、タルト、パイ、クッキー──どれも丁寧に作り込まれた逸品ばかりで、思わず感嘆の息が漏れる。
「これは……すごいわ」
「侯爵家の立派なスイーツには敵いませんが、腕によりをかけて作りました」
控えめに言うハンスの声に、私は思わず首を横に振った。
「うちでは手の込んだ焼き菓子はお店から買うことが多いの。だからこそ、ハンスの焼き菓子は特別だわ」
心からの言葉に、ハンスの頬が赤く染まったのが分かった。
照れたように目を伏せる彼の姿が微笑ましく、思わず私も笑みをこぼす。
「今日はクレープもご用意しております。これらは持ち運びが難しいので、この場でお召し上がりいただけたらと」
「クレープまで? 本当に楽しみだわ」
期待に胸を高鳴らせながら席に着くと、ふんわりとした甘い香りが鼻先をくすぐる。
その香りから、作り手の真心が伝わってくるようだった。
****
「一番上の坊ちゃまは結婚しておりますが、邸にはおらず、あとのお二人の坊ちゃまには婚約者もおらず……お菓子作りの腕を持て余しているのです」
ハンスはお皿を置きながら、どこか残念そうに肩をすくめた。
その仕草には、本音が漏れたような寂しさも感じ取れた。
「そう言いながら、俺のランチのデザートに、いつも押し付けているだろう」
レオナードが鼻で笑いながらそう言う。
「私もおすそ分けしてもらっているの」
そう言いながら、私は先ほど口にしたクッキーのほのかな甘さを思い出す。
バターの香りが鼻腔をくすぐり、心を温めてくれるようだった。ほっとする美味しさだ。
「ええ、最近はお嬢様のために押し付けていると言っても過言ではありません!」
ハンスが朗らかに言い切ると、その目尻には笑い皺が浮かんでいる。
喜びがその全身からにじみ出ているような彼の姿に、私まで嬉しくなった。
「お坊ちゃまも勉強ばかりしていないで、早く婚約者様をお見つけになればいいのに……そしたらこのハンス、お茶会のため腕を振るいますものを」
そう言って、今度は、ため息混じりの声を漏らすハンス。
その肩が少し落ちるのを見て、私はふと笑いをこらえた。まるで親が子を心配するような口ぶりだ。
「まだ言うか……勉学に励む俺を褒めろ。そして、人前で坊ちゃまは辞めろ。ったく……うちは貧乏だし、相手の利にならないから、婚約者探しは大変なんだぞ」
レオナードの冗談めいた口調とは裏腹に、彼の言葉の奥底には現実を見据えた冷静な視点がある。
「文官になったとしても、暫くは自分一人養うので精一杯な給料だしな。結婚するにしても、結婚相手には働いてもらわないといけない、まぁ、そのうち考えるさ」
その言葉に驚きつつも、どこか彼らしい現実的な考え方だと納得する。
貴族の三男である彼にとって、余計な夢を見るよりも現実を見据えることが、何より重要なのだろう。
「でも俺は優秀だからな、最年少で文官長くらいにはなるつもりだ。文官長の中には、大きな功績を残し、爵位を賜った者もいると聞く。そしたら、5年後も10年後も、リディア、お前たちと今のように話せる仲でいられるぞ」
「あなた、5年後も10年後も私たちと交流を持つ気だったの?」
「……持つ気だった……だめだったか?」
彼は少し目を泳がせながら尋ね返した。
その表情にはほんのりとした不安が滲んでいる。その様子が可愛らしく思えて、私は肩をすくめながら答える。
「いいえ、全く。ごめんなさい、言い方が悪かったわ」
レオナードは安堵の笑みを浮かべると、再び真剣な表情に戻った。
学院でどんなに仲良くしていても、身分が違う友人とは卒業後おのずと距離ができると聞く。いくら上の者がいいと言っても、下の者が遠慮して距離を置くのだ。
しかし、レオナードの瞳には確かな覚悟が宿っている。
「俺が一番爵位が低いうえに、継ぐ爵位もないだろう。話しかけることすら困難になる。今はお前たちが許してくれるから、こんな言葉遣いで話せるが、卒業したら周りが決して許さないだろう。でも、たまに会って話すくらいは許されるように、俺は頑張るつもりだ」
卒業後の厳しい現実を見据えながらも、今の関係を守りたいという強い
意思に嬉しさが溢れてきた。
「見てろ。すぐに文官長だ。さすがに公爵夫人には頻繁に会えないがな」
彼の言葉に、私は静かに微笑みながら答える。
「それでも、話ができるのなら……すごく、嬉しいわ。レオナードなら絶対、文官長になれるわ」
この穏やかな日常が、どこまでも続いていくことを願わずにはいられなかった。
*****
「こちら坊ちゃまの大好物のトマトのゼリーでございます」
ハンスが慎重に両手で運びながらテーブルにそっと置いたのは、赤い宝石のように輝くゼリーだった。その鮮やかな色彩に目を奪われた私は、思わず目を丸くした。
「トマト?」
信じがたい思いでつぶやくと、隣に座るレオナードが少し困ったように頭を掻いた。
「レオナード、あなたトマトが食べられるようになったの?」
「……あー、そうだな」
どこか歯切れの悪い返事に、私の中の疑問がさらに膨らむ。これまで彼がトマトを避けているのを知っていたからだ。
「大好物って……本当に?」
私が少し首を傾げながら尋ねると、レオナードは肩をすくめながら視線を逸らした。
「まあ、調理法によってはな。いいから食べてみろ。青臭さが全然なくて、うまいんだよ」
その強引とも言える勧め方に、首をかしげながらスプーンを手に取る。ゼリーの滑らかな表面がきらりと光を反射し、涼やかな見た目が口元に甘酸っぱさを想像させる。私はゼリーを一口すくい、慎重に口へ運んだ。
冷たく柔らかな舌触りとともに、爽やかな甘みと程よい酸味が広がり、思わず息を呑む。
その味わいは、トマトへの先入観を一瞬で消し去るものだった。
「確かに……甘みと酸味のバランスが絶妙だわ」
思わず感嘆の声を漏らすと、レオナードはどこか得意げな表情を浮かべ、腕を組んで大きく頷いた。
「そうだろ? ハンスの自信作だ」
その言葉に、キッチンへと戻ろうとしていたハンスが立ち止まり、少し照れたような微笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、お嬢様。お気に召していただけたなら幸いです」
やがてテーブルが片付けられ始める中、ハンスが包みを手にしながらこちらを振り返った。
「余ったお菓子は、弟様へのお土産にお持ちください」
「ありがとう。きっと喜ぶわ」
ハンスは丁寧にお菓子を包んでくれる。その様子を見守りながら、私は弟の嬉しそうな顔を想像した。彼が目を輝かせながらお菓子を頬張る姿が浮かび、思わず笑みがこぼれる。
ゼリーの余韻がまだ口の中に残る中、私は静かに微笑み、レオナードに視線を向けた。




