10.未来の公爵 sideセオドア
sideセオドア
「……嫌です」
声は震えるが、決意は固まった。
手をきつく握り締め、微かに唇を噛む。
そんなこと、できない。そう心の中で呟く声は、どこか切ない響きを持っていた。
「嫌ですって、あなた……」
カークランド男爵夫人はあからさまに困惑した顔をして、少し苛立ったように口を開く。
冷たい視線が私の方へ向けられる。
「身分差はどうするの。それに、政略で結ばれた婚約者はどうするの? 互いの家の関わりはどうするの。エマのせいで破棄となったら、私たちも慰謝料を払うのよ」
カークランド男爵夫人の言葉は冷徹で、私に現実を突きつけていた。
その一言一言が、まるで心の奥に突き刺さるように痛かった。だが、怯むことなく、カークランド男爵夫人を見つめ返した。
「確かに、私は卒業したら公爵の養子になることが、幼い頃から決まっています」
声が落ち着いてきた。言葉に揺るぎない自信がこもる。
「伯爵家のままだとしても、男爵令嬢であるエマとは身分が違いすぎる。でも、私が公爵家の当主になったら――」
一歩前へ進み、エマを優しく見つめた。
「公爵家の権力を使い、エマを別の高位の貴族に養子として迎え入れさせることで、エマの身分を引き上げることができる」
その言葉を聞いた瞬間、エマの瞳に光が宿った。
「セオ!」
名前を呼ぶ声には、感激と驚きが混ざり合っている。その顔は、ほんのり赤く染まっていた。
「両家の共同事業も卒業と同時に進むことが決定していますが……」
声はさらに力強くなる。
「しかし、それは、公爵家に、我が家とリディアの家が協力するという形でです。ならば、中心はいずれ公爵になる私です」
カークランド男爵夫人は思わずといった様子で、目を開く。
私の自信満々な態度と、現実的な計画に言葉を失っているのだろう。
「リディアの家には、公爵家との関係を損なうことのデメリットを暗示し、譲歩を引き出すという手もあります。なんなら、侯爵家と手を切り、男爵家と手を組むという道も……」
言葉を紡ぐたび、エマの瞳は輝いた。
養子に入る公爵家の夫妻は、私をいつも温かく迎えてくれたことを思い出す。
公爵夫人の優しい声が脳裏に蘇る。
「早く来てほしい。楽しみにしているわ」その言葉が今の私を支えている。
再びエマの方を向き、静かに微笑んだ。窓の外では夕焼けが赤く空を染め、部屋に淡い橙色の光が差し込んでいる。その光がエマの柔らかな髪に溶け込み、彼女は天使のように見えた。
「そうだ、私は公爵になる。権力を手にした私に逆らえるものなどいない。父でさえも」
声には揺るぎない決意がこもり、その言葉は部屋の空気を引き締めるようだった。一切の迷いも恐れもない。
「……それでは、あなたはエマを愛人ではなく、妻に迎えるということを考えていると思っていいのね」
妻。その響きが胸の奥深くに染み渡る。
エマが私の妻。なんて幸せなことなのだろう――頭の中でその言葉を反芻するたび、自然と笑みが浮かぶ。
紅潮した顔でこちらを見上げるエマの瞳は、どこか不安げでありながらも、確かな期待を秘めていた。
「はい。望みが叶うのなら。エマと生涯を共にしたい。私の傍にずっといてほしい」
言葉が部屋に響くたび、エマの瞳が一層潤む。エマは小さくうなずき、私の言葉に耳を傾け続けている。
しかし、私の言葉に対してカークランド男爵夫人は冷静だった。
エマへの思いを認めつつも、現実的な問題を見据えていた。
「それでも、エマが原因で幼い頃からの婚約がだめになったと誰もが思うわ。社交界での評判も、それこそ一連の責任が我が家に来ても……」
カークランド男爵夫人の言葉には、現実の厳しさが滲んでいた。
社交界の厳しい視線と噂、婚約破棄による対立――それらの困難を背負う覚悟があるのかを問うているのだ。
「……慰謝料などが請求されても私がなんとかします。公爵家は国で指折りの富豪です。望む額の慰謝料など余裕で払える」
毅然と答えた。未来を切り開くための強い決意がある。
あとは、社交界の評判か……思案を巡らせる。
不利な噂が出ないよう、やはり、グラント侯爵家には、直接的な脅しではなく、公爵家との利益を提示する形がいいだろう。
グラント侯爵との友好関係を維持するため、特別な配慮を約束し、婚約破棄後の損失を補填する。
――そのための計画を胸中で練りながら、カークランド男爵夫人の厳しい視線を正面から受け止めていた。
カークランド男爵夫人は、しばし沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「そこまで言うなら、わかったわ。旦那様には私から伝えます。絶対エマを裏切らないで。大事な娘なの」
その一言には、母としての愛情と警告の両方が込められていた。
エマを守るためにはどんなことでもする――そんな覚悟を秘めたカークランド男爵夫人の眼差しが突き刺さる。
その場に漂う静寂を破るように、深くうなずいた。
そしてエマの方を振り返り、もう一度穏やかな笑みを浮かべる。彼女の不安げな瞳を見つめながら、そっと手を取った。
「必ず幸せにする」
その言葉が部屋に響いた瞬間、エマの頬が赤く染まり、カークランド男爵夫人は静かに息をついた。




