1.沸き上がる苦い感情
婚約者であるセオドアが、無造作に自分の課題の束を私に手渡す。
「いつものだ。明後日取りに来る」
「……分かったわ」
返事を最後まで聞かず、セオドアは、すでに背を向けている。
金色の髪が夕陽に照らされて、輝いていた。背筋を伸ばしたまま、彼は振り返ることもなく廊下の向こうへと颯爽と消えていく。
その足取りは、迷いのない軽やかなものだ。そう、いつも通り。かつては、この無愛想な態度に傷ついていたものの、今ではすっかり慣れてしまった。感情を込める価値がないと思えるほどに。
私の胸に残るのは、淡々とした事務的なやりとりの余韻だけ。
課題を代わりにやるのも、もはや何度目になるのだろうか。
彼が見えなくなった廊下をぼんやりと見つめると、大きなため息が自然と口をついて出る。
廊下は、夕方の柔らかな光に包まれていた。婚約者である彼が邸まで私を送ってくれることなど、もはや期待できない。
それでも、ほんの少しだけ「もしかしたら」という思いが頭をよぎることもある。無駄な期待は心を疲弊させるだけだとわかってはいても、それでも完全に消し去ることはできない。そんな自分が嫌になる。
窓越しに映る自分の姿が目に入る。ぼんやりとした輪郭を持つ疲れた表情の自分がそこにいた。思っていたよりも、ずっと冴えない顔をしているわね。
気持ちを切り替えるようにまぶたを閉じ、そっと息を出す。
教室の扉を開けた瞬間、視線を感じ顔を上げると、目に入ったのは、呆れた顔の二人の友人だった。
「ふふ、そんな顔しないで」
私はそんな友人たちに向かって、かすかに微笑んだ。
「『分かったわ』って……リディア、分かっちゃダメだろ」
友人の一人、レオナードが眉をひそめ、話しかけてくる。
あら、聞こえていたのね。
もう一人の友人、カタリナも頷き、同意の声を上げる。
「本当よ。信じられない。婚約者だからって何でも押し付けるなんて」
私は肩をすくめ、軽く首を振る。
「いいのよ。こんなの大した時間もかからないのですもの。断ったら、かえって面倒なことになるだけ」
心配そうな友人たちを安心させるように笑みを見せた。
生まれてからすぐに決まった婚約者――セオドア ・モンクレア伯爵令息。
今のような関係になったのはいつからだったのだろう。
身長を追い越してしまった時からだろうか。
それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。
あるいは――小柄で可愛らしいエマ・カークランド男爵令嬢。あの子に出会った時からだろうか。
不機嫌そうに私を見上げる、その視線の冷たさ。
嫉妬と苛立ちが入り混じったような表情。
エマと親しげに笑い、愛しそうに見つめるその眼差し。
そんなことを考えていると、ふいに目の前に美味しそうなマフィンが現れた。甘い香りが漂い、少しだけ気持ちが和らぐ。
「頑張り屋のお前には特別に、うちのハンス特製のマフィンをやる」
レオナードの声に顔を上げると、彼はマフィンを差し出しながら得意げな笑みを浮かべている。レオナードの家のシェフ、ハンス。お菓子作りが、とても得意だ。
「ハンス特製のマフィン? 嬉しいわ。この前のパイも絶品だったわ」
「そうだろ? ハンスに伝えておくよ。今回もうまいぞ」
やりとりの中の明るさが、冷えかけた心にじんわりと染みる。
落ち込んだ顔でもしていたのね、きっと。
レオナードが慰めてくれているのが分かって、思わず微笑んだ。
2年でのクラス替えで私が特進クラスに入った時、セオドアが憎々しげに睨んできたことがあった。しかし、今では、クラスが離れたことを、ほっとしている自分もいる。
それに、出会えた友人たちは――私にとってかけがえのない存在になった。
ふと横を見ると、カタリナが窓の外をじっと見つめ、眉をひそめている。
「どうしたの?」
問いかけると、カタリナが視線を逸らさずにぽつりと言った。
「見ない方がいいわ」
その言葉に胸の奥がざわつく。
嫌な予感を押し殺し、窓の外を覗くと――そこには中庭で、セオドアと例の令嬢エマが寄り添う姿があった。まったく、あんな、人目の付くところで……。
小柄で可愛らしい彼女が、セオドアの腕に触れながら笑い、セオドアもそれに応えるように微笑んでいる。親密すぎるその光景は、まるで恋人たちのようだった。
胸がきゅっと締め付けられる感覚に襲われたが、私は表情に出さないように平然を装う。
「気を使わなくて大丈夫よ。いつものことじゃない」
努めて落ち着いた声を出しながら、友人たちに微笑みかける。
「本当に? 私、耐えられないわ!」
カタリナが憤慨し、隣にいるレオナードに振り向く。
「……ねぇレオナード、何か投げつける物はないかしら?」
その言葉にレオナードが苦笑し、軽く肩をすくめた。
「カタリナ……お前令嬢なんだから物理的な攻撃はやめておけって。安心しろ、リディア。俺が、何かあった時のために、お前の婚約者の不貞は全部記録してるから。使いたい時は言えよ。慰謝料ぶんどってやろうぜ」
私は思わず吹き出してしまった。
「ふふ、さすが文官志望ね。でも、……たぶん使うことはないわ。私たちの結婚にはいろいろな契約が絡んでいるもの。今更、取りやめることなんてできない。セオドアも、それはよく分かっているはず」
契約に縛られた関係――それが私たちの現実なのだから。
しかし、カタリナは信じられないといった表情で大きな目をさらに見開いた。
「分かってるのに、あれなの? 最悪……。あの女を愛人にでもしようとしてるんじゃ……。もし、そうなったら?」
私は静かに微笑んだ。
「構わないわ」
その一言に、カタリナは椅子から転げ落ちそうになるほど驚く。
「嘘!? リディア、それ本気で言ってるの!?」
驚くカタリナをよそに、私は再び窓の外に目をやる。エマがこちらに気づいたのか、勝ち誇ったように微笑みながらセオドアにさらに密着をする。
思わず唇を噛む。
胸の奥で沸き上がる苦い感情を押し殺しながら、私は黙って視線を逸らした。




