同期の罠
第一部:砕かれた鏡像
第一章:三つのコーヒーカップ
夕暮れの光が、丸の内のガラスの摩天楼を琥珀色に染め上げていた。オフィスビル群の谷間にひっそりと佇むカフェの窓際の席で、田中茜、佐藤文子、遠藤千春の三人は、いつものように集まっていた。大手総合商社「丸商コーポレーション」の同期である彼女たちにとって、この時間は、一日の激務とプレッシャーという名の鎧を脱ぎ捨てられる、貴重な聖域だった。カトラリーの触れ合う音、豆を挽く香ばしい香り、そして人々の穏やかなざわめきが、心地よい繭のように彼女たちを包んでいた。
「今日の部長、また無茶振りしてきてさ。明日までにこのデータまとめろって。鬼だよ、鬼」
茜が、運ばれてきたばかりのカフェラテのきめ細やかな泡をスプーンでつつきながら愚痴をこぼす。彼女は輸送機部門に所属し、世界中を飛び回る船舶や航空機部品の物流という、巨大な歯車を管理している。一つの遅れが数百万ドルの損失に繋がるプレッシャーと常に隣り合わせの仕事だった。
「わかる。こっちも新商品のプロモーションで、クライアントが急にコンセプト変えたいとか言い出して。もう企画書、三回書き直してる」
文子は生活産業部門のマーケティング担当だ。彼女は消費者の心を掴むため、食品から日用品まで、幅広い商品の宣伝戦略を練り上げる。トレンドの移り変わりが激しい世界で、常にアンテナを張り巡らせていなければならなかった。
二人のぼやきを聞きながら、千春はブラックコーヒーのカップを静かに傾けていた。その指先が、微かに震えている。彼女は同期の中でも最も野心的で、花形部署であるエネルギー・金属部門で大型の液化天然ガス(LNG)プロジェクトに携わっていた。国家間のエネルギー供給を左右するほどの規模の案件で、彼女にかかる重圧は茜や文子の比ではなかった。
「二人とも甘いよ。こっちは今、数千億が動くディールで、一分一秒を争ってるんだから。少しのミスも許されない」
千春の言葉には、いつもの軽やかさがなかった。その瞳には深い疲労と、何かに追われるような焦りの色が濃く浮かんでいる。ふと、彼女は声を潜め、カップを持つ手で口元を隠した。
「…最近、誰かに見られてる気がするの。気のせいかもしれないけど」
その時、三人の背後から、滑らかな声がした。「遠藤さん、奇遇ですね。お疲れ様です」
振り返ると、そこには新田啓介が立っていた。彼は外資系の戦略コンサルティングファームから、千春のプロジェクトにアドバイザーとして派遣されている男だった。非の打ち所のないスーツを着こなし、理知的な笑みを浮かべている。
「少し煮詰まってまして。皆さんもですか?」
新田は三人に軽く会釈すると、自分の席へと戻っていった。彼のテーブルの上には、分厚い財務資料とノートパソコンが広げられている。その画面に一瞬、丸商の社内ネットワークの構成図のようなものが映ったのを、茜は見逃さなかった。サーバーの低い唸り声のような幻聴が、一瞬耳をよぎった。
三人の絆は、入社以来、この厳しい企業社会で生き抜くための支えだった。仕事の悩みも、プライベートな夢も、すべてを分かち合ってきた。だが、今日の千春の言葉には、見えない壁を感じさせる棘があった。それでも茜と文子は、それが極度のプレッシャーから来るものだと理解しようと努めた。彼女たちは、この巨大な商社という機械の中で、互いが互いの人間性を保つための最後の砦だと信じていたからだ。
第二章:送られなかったメール
亀裂は、些細なきっかけで訪れた。部門横断のプロジェクトで、千春が担当するエネルギー案件の採算性評価に必要なデータの一部を、茜の物流部門と文子のマーケティング部門が提供することになっていた。締め切りが迫る中、千春から三人のプライベートなグループチャットにメッセージが届いた。
『茜、文子、頼んでたデータまだ?こっちのデッドライン、わかってる?』
スマートフォンの冷たい光に照らされたその文面は、いつもの彼女らしくない、刺々しいものだった。茜は焦って返信する指がもたつくのを感じながら、キーを叩いた。
『ごめん、今やってる。でも、関連部署からの情報が遅れてて…』
『言い訳はいい。あなたたちのせいでプロジェクトが危機に瀕してるの。もっと責任感持ってよ』
千春の返信はさらに厳しかった。文子が割って入る。
『千春、言い方きつくない?こっちだって自分の仕事で手一杯なんだよ』
売り言葉に買い言葉。チャット上での口論は瞬く間にエスカレートした。感情的な言葉が飛び交い、互いの仕事へのプライドを無遠慮に傷つけ合う。そして、千春からの最後の一言が、三人の間に決定的な沈黙をもたらした。
『もういい。あなたたちには期待しない』
それきり、メッセージが更新されることはなかった。茜も文子も、怒りと悲しさでスマートフォンをデスクに置いた。ただの喧嘩だ。明日になれば、またいつものように笑い合える。そう思いたかった。
しかし、彼女たちの知らないところで、その一部始終が冷徹な目で見つめられていた。丸商の社内ネットワークに潜む脆弱性を利用し、彼らの内部通信を監視している人物がいた。その人物にとって、この「些細な喧嘩」は、これから始まる壮大な計画の、完璧な序曲に過ぎなかった。
第三章:静寂のアパート
翌日、千春からの連絡は一切なかった。会社も無断で休んでいるという。茜と文子は、昨夜の口論を後悔しながら、何度も電話をかけ、メッセージを送ったが、返信はない。既読にすらならなかった。
嫌な予感が、冷たい手のように心臓を掴む。仕事終わり、二人は示し合わせて千春が住む湾岸エリアの高級タワーマンションへと向かった。エントランスの静寂がやけに耳につく。インターホンを鳴らしても応答はない。コンシェルジュに事情を話し、マスターキーでドアを開けてもらう。
部屋の中は、異様なほど静まり返っていた。時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いている。そして、リビングルームのソファに横たわる千春の姿を、二人は発見した。彼女はもう、動かなかった。
やがて到着した警察によって、現場は無機質な黄色いテープで封鎖された。捜査を指揮するのは、警視庁捜査一課の渡辺警部補。彼は、几帳面だが想像力に乏しい、典型的な現場主義の刑事だった。彼は、ショックで立ち尽くす茜と文子を機械的に引き離し、別々の部屋で事情聴取を始めた。彼の目に浮かぶ疑念の色は、あまりにも明白だった。「また若い女たちの痴話喧嘩がこじれた果てか…」そんな心の声が聞こえるようだった。現場に荒らされた形跡はなく、無理に侵入した痕跡もない。これは顔見知りの犯行だ。そして、目の前には、被害者と昨日口論したばかりだという二人の親友がいる。彼にとって、これ以上わかりやすい筋書きはなかった。
第四章:デジタルの短剣
渡辺のチームは、現場のデジタルデバイスの初期調査を開始した。千春のスマートフォン、ノートパソコン、そして、コーヒーテーブルの上に無造作に置かれていた一台のタブレット。問題の証拠が見つかったのは、そのタブレットからだった。
法医学の担当者がタブレットのロックを解除すると、ギャラリーに保存された数枚のスクリーンショットが目に飛び込んできた。それは、昨夜の茜、文子、そして千春のLINEグループのトーク画面だった。しかし、その内容は、茜と文子が知るものとは全く異なっていた。
『あんたのせいで全部台無し。後悔させてやる』
『絶対に許さないから』
茜と文子のアカウントから送られたとされるメッセージは、単なる口論を超えた、明確な脅迫だった。タイムスタンプは、実際の口論があった時間帯と完全に一致している。
「警部、これを見てください」
渡辺は、差し出されたタブレットの画面を覗き込み、眉をひそめた。動機は昨夜の諍い。そして、殺意を示す物的証拠。彼の頭の中で、事件の点と線が繋がり、一本の確信に変わっていく。血の気が引くような感覚に襲われる茜と文子を前に、彼の確信は揺るがなかった。
犯人は、この二人以外にあり得ない。
このスクリーンショットが、巧妙に仕掛けられた罠の第一歩であることなど、渡辺は知る由もなかった。犯人は、警察が最も飛びつきやすい、単純で感情的な物語を提示したのだ 。複雑なデジタル偽装は、時に専門家の疑念を招く。しかし、実際の口論という「事実」に裏打ちされた、生々しい脅迫メッセージのスクリーンショットは、捜査官の確証バイアスを強烈に刺激する 。警察は一度この物語を信じ込めば、後から出てくる矛盾した情報さえ、この物語に合致するように解釈してしまうだろう 。犯人はデータを偽造したのではない。警察がたどるべき「捜査の道筋」そのものを設計したのだ。
第二部:機械の中のアリバイ
第五章:仕組まれた迷宮
茜と文子は、湾岸署の無機質な取調室で、正式な事情聴取を受けていた。冷たいパイプ椅子、消毒液の匂い、壁のシミ。すべてが非現実的だった。渡辺警部補が突きつけてきたのは、もはや単なる疑念ではなかった。それは、デジタル証拠によって固められた、揺るぎない「事実」の連鎖だった。
まず、例のLINEのスクリーンショット。二人がどれだけ「こんなメッセージは送っていない」と否定しても、渡辺は冷ややかに受け流すだけだった。次に示されたのは、二人のスマートフォンのGPSログだった。警察の科学捜査班が解析したというそのデータは、事件があったと推定される時刻、茜と文子の両名が、千春のアパート付近に一時間以上にわたって滞在していたことを示していた。
「私たちは、その時間、別々の場所にいました」
茜は必死に訴えた。自分の記憶が、世界から否定される感覚に眩暈がした。彼女はその時間、実家の両親とビデオ通話をしていた。文子は一人で、会員制のジムでスピンクラスに参加していた。だが、彼女たちの主張は、次々と提示される「事実」によって打ち砕かれていく。
「ビデオ通話のログには、不審な中断記録がある。数分間だが、通信が途絶えている」
「ジムの記録を調べたが、君の会員証が使われた形跡はない」
追い打ちをかけるように、渡辺は一枚の写真をテーブルに置いた。それは、千春のマンション近くのコンビニの防犯カメラ映像を切り取ったものだった。不鮮明な画像の中、マンションの方角から歩いてくる、茜と似た体格の女性が映っている。顔は判別できないが、警察にとっては、これもまた状況を補強する有力な証拠と見なされた。
「君たちのスマートフォンが、君たちが現場にいたと証明している。アリバイは崩れた。防犯カメラもそれを裏付けている。そして、被害者のタブレットには、君たちからの脅迫メッセージが残されていた。それでも、まだ否認を続けるのかね?」
渡辺の言葉は、まるで分厚いガラスの壁のように茜と文子の前に立ちはだかった。自分たちが作り上げたはずのないデジタルな足跡が、逃れようのない檻となって二人を閉じ込めていく。文子の脳裏に、婚約者である高橋の顔が浮かんだ。メガバンクに勤める彼は、いつも文子のことを心配し、GPSでの位置情報共有を提案していた。まさか、そんなはずはない。しかし、疑念の種は、一度蒔かれると静かに、だが確実に根を張っていく。「あの優しい笑顔の裏に、こんな冷たい計算があったというのか?」
第六章:見えない操り手たち
その頃、東京の様々な場所で、三人の男女が事件のニュースを静かに見つめていた。
丸商コーポレーション本社ビル、M&Aアドバイザリー部門。課長の影山正隆は、モニターに映る「友人女性二人に容疑」というテロップを眺め、表情一つ変えずにコーヒーを口に運んだ。彼のデスクには、千春のLNGプロジェクトとは全く無関係に見える、ある無名の技術系ベンチャー企業の買収計画書が置かれていた。
都心の高級サービスアパートメント。外資系コンサルタントの新田啓介は、自宅のハイスペックなPCで、丸商の社内ネットワークの脆弱性マップを眺めていた。彼のモニターの片隅には、茜、文子、そして千春のSNSプロフィールが表示され、その交友関係や行動パターンが詳細に分析されている。
大手町にあるメガバンクの一室。文子の婚約者である高橋俊哉は、鳴り続ける文子からの着信を無視し、別の相手と低い声で話していた。「計画通りだ。これで彼女も、俺から離れられなくなる…」彼の顔には、心配する恋人のそれとは程遠い、冷たい満足感が浮かんでいた。
彼らにとって、これは激情による犯罪ではない。それぞれが描く、より大きな目的を達成するための、冷静沈着な事業計画の実行に過ぎなかった。
第七章:デジタル防衛チーム
数日後、茜と文子は、証拠隠滅の恐れが低いと判断され、正式な逮捕は見送られたものの、重要参考人として厳しい監視下に置かれたまま、一旦解放された。世間の目は冷たく、会社は無期限の自宅待機を命じた。社会から抹殺されかけるという極限状況は、二人の心を蝕んでいた。一瞬、文子の脳裏に「茜が、私を陥れるために…?」というあり得ない疑念がよぎり、すぐに自己嫌悪に陥った。信頼が揺らぐ恐怖。絶望の淵で、二人は最後の望みを託し、ある法律事務所のドアを叩いた。
迎えたのは、サイバー犯罪を専門とする弁護士、佐伯誠だった。古い法律書と最新のサーバーが混在する彼のオフィスは、彼の戦い方を象徴しているようだった。彼は、鋭い目つきで二人を見据え、単刀直入に言った。
「状況は最悪です。警察はデジタル証拠を固めており、あなた方の無実の主張は、今のままではただの言い訳にしか聞こえないでしょう」
佐伯は、「証拠能力」と「証明力」という言葉を使い、法廷でデジタル証拠を覆すことの困難さを説明した 。「偽物だ」と叫ぶだけでは意味がない。偽物であることを、客観的な事実をもって「証明」しなければならないのだと。
「そのために、最高の専門家を呼びました」
佐伯が紹介したのは、フリーランスのデジタルフォレンジック専門家、舟木一だった。無精髭を生やし、よれたシャツを着た舟木は、一見すると頼りなさそうだったが、その目は鋭く、デジタルの深淵を覗き込んできた者のそれだった。「大手は窮屈でね。本当の真実は、組織の外に転がっていることが多い」彼はそう言ってにやりと笑った。
舟木の最初の要求は、警察が押収した茜と文子のスマートフォン、そして事件現場から見つかったすべてのデジタルデバイスの、完全な複製の提供だった。
「オリジナルには絶対に触れてはいけません。データの保全が最優先です。我々が解析するのは、このクローンデータだけ。そして、オリジナルとクローンのハッシュ値が完全に一致することを確認し、証拠の連続性を確保します。これを怠れば、我々の解析結果もまた、法廷で証拠能力を失う可能性があるからです」
舟木の説明は、茜と文子にとっては未知の言語のようだったが、その言葉には、このデジタルな迷宮から抜け出すための、唯一の地図が示されているように感じられた。
八章:アナログの探偵
舟木が膨大なデジタルデータの海に潜っていく一方で、弁護士の佐伯は、もう一つの戦線を構築していた。
「デジタルの証拠をデジタルで覆すだけでは不十分です。警察が作った『物語』を完全に破壊するには、彼らが全く想像していない、別の『真実の物語』を提示する必要があります。つまり、真犯人と、その動機です」
佐伯は、二人を元警視庁捜査一課の刑事で、今は私立探偵を営む後藤田という男に引き合わせた。後藤田は、現役時代、その粘り強い聞き込みと人間観察力で数々の難事件を解決してきた古強者だった。彼の事務所には、解決した事件の新聞記事の切り抜きが、色褪せて壁に貼られていた。「デジタルの光が届かない場所にこそ、人間の本性が隠れてるんだ」と彼は言った。過去に担当した事件で、デジタル証拠に惑わされ、危うく冤罪を生みかけた苦い経験が、彼をアナログな真実の探求へと駆り立てていた。
後藤田が最初に着手したのは、証拠の精査ではなかった。彼は、誰もが目を向けていない一点、つまり被害者である遠藤千春その人の、深い部分を掘り下げることだった。それは、かつて松本清張が『砂の器』で描いたように、事件の真相を手繰り寄せるための、被害者の人生を遡る旅だった 。
「彼女が本当に取り組んでいた仕事は何だったのか。彼女は誰に恨まれていたのか。殺されるほどの理由は何だったのか。それを解き明かさない限り、この事件の本当の姿は見えてこない」
後藤田の捜査は、人間の欲望と秘密が渦巻く闇の中から始まろうとしていた。
第九章:ピクセルの亡霊
数週間後、舟木は、茜、文子、そして佐伯を前に、彼の予備調査の結果を報告した。その内容は、警察が築き上げた証拠の城壁に、最初の亀裂を入れるものだった。
「まず、LINEのスクリーンショットです」 舟木はモニターに画像を映し出した。「これはELA、エラーレベル分析という手法で見た画像です。JPEG画像は保存するたびに、目に見えないレベルで劣化、つまり圧縮エラーが蓄積します。画像全体が均一なら、このノイズも均一になるはず。ですが、見てください。このメッセージの吹き出し部分だけ、周囲と比べて妙に明るく光っているでしょう。これは、この部分だけが異なる圧縮履歴を持つ、つまり後から貼り付けられたことを示す強力な痕跡です 。もっとも、この手法は解釈が主観的になりがちで、専門家の間では『ホビイスト向け』と揶揄されることもあるんですがね 。だからこそ、犯人はこれ見よがしな高度な偽装ではなく、捜査官の先入観をくすぐるような、微妙な『違和感』を残したんです」さらに、画像のメタデータを解析すると、特定の画像編集ソフトウェアを使用した痕跡(XMPメタデータ)も見つかった。
「次に、GPSログ。これは典型的な偽装アプリの挙動です」 彼は、警察が提出したGPSデータと、実際のスマートフォンのGPSデータが示す軌跡を比較した。偽装されたデータは、特定の地点に釘付けにされたように微動だにしないのに対し、本物のデータは、衛星との通信状態によって常に微細な揺らぎ(ドリフト)を見せる 。
「最後に、千春さんのPCから、興味深いものが見つかりました」 舟木は別のファイルを開いた。それは千春のブラウザの検索履歴だった。「インサイダー取引 告発 方法」という生々しいキーワードに混じって、「新田啓介 評判」「メガバンク 不正融資 スキーム」といった検索ワードが並んでいた。そして、デスクトップには「保険」と名付けられた、強力なパスワードで暗号化されたファイルが一つだけ残されていた。
「警察はこのファイルに気づいていますが、まだ解読できていません。この中に、千春さんが命を懸けて守ろうとした何かがあるはずです」
佐伯は、舟木の報告書を手に、静かに頷いた。「…これは、我々が思っている以上に根が深い」。彼の言葉の重みを、茜と文子はただ黙って受け止めるしかなかった。二人は顔を見合わせる。そこには、言葉にならない不安と、それでも互いを信じようとする微かな決意が浮かんでいた。この短い沈黙が、二人の間に再び生まれ始めた絆の証だった。
第三部:設計者の仮面を剥ぐ
第十章:M&Aの書類綴り
探偵の後藤田の捜査が、ついに核心に迫った。彼は、千春の死後、自主退職した彼女の元同僚との接触に成功した。当初は口が重かった元同僚も、後藤田の粘り強い説得と、友人の無念を晴らしたいという思いから、重い口を開いた。
彼の話によると、千春は殺される直前、社内の内部監査部門に匿名の情報提供をしようとしていたという。彼女は、自身が担当するエネルギープロジェクトの関連データを整理する過程で、奇妙な金の流れに気づいた。丸商のM&A部門が、特定の技術系ベンチャーや資源関連の中小企業を買収する直前に、必ずそれらの企業の株式が、匿名のファンドによって大量に買い付けられているというパターンを発見したのだ。
それは、巧妙に隠蔽された、長年にわたる大規模なインサイダー取引の紛れもない証拠だった。千春は、その事実を会社の内部調査委員会に正式に報告する寸前だったのだ。彼女の殺害は、単なる口封じだった。巨大な不正が白日の下に晒されるのを防ぐための、冷徹な排除行動だったのである。
第十一章:ガラスの塔の男
動機がインサイダー取引であると判明したことで、容疑者の範囲は劇的に絞られた。犯人は、M&Aの未公開情報と、千春のプロジェクトデータの両方にアクセスでき、かつ高度なIT知識を持つ人物でなければならない。
弁護士の佐伯のオフィスで、後藤田の調査報告と、舟木の技術的プロファイリングが突き合わされた。そして、二つのリストに共通して浮かび上がった名前は、ただ一つだった。
影山正隆。
彼は、問題のM&A案件をすべて統括していた。社内では、自部署のITトラブルを自ら解決してしまうほどの技術マニアとして知られていた。上級管理職として、彼は必要な情報へのアクセス権限を持っていた。そして何より、彼は千春にとって尊敬するべき指導者であり、事件後、悲しみにくれる茜と文子に、同情的な言葉さえかけていた男だった。
茜と文子は、その名前に戦慄した。信じられない、信じたくないという思いと、すべてのピースが恐ろしいほど完璧にはまる感覚が、彼女たちの心をかき乱した。過去に影山からかけられた親切な言葉の一つ一つが、今や悪意に満ちた偽善の仮面のように思え、吐き気を催した。「あの優しさも全て偽りだったのか」。裏切りの痛みは、鋭い刃物のように心を抉った。
第十二章:故郷へのデジタルな道筋
標的が影山に定まったことで、舟木の調査は新たな段階に入った。彼の個人デバイスをハッキングすることは違法であり不可能だが、公開されているデジタル空間の痕跡を追うことはできる。舟木は、懇意にしている「ホワイトハット・ハッカー」の協力を得て、GPS偽装アプリとLINE偽装に使われたプリペイドスマートフォンの購入経路を逆探知した。
支払いは暗号資産で行われており、追跡は困難を極めた。しかし、その暗号資産ウォレットに最初に入金された際のIPアドレスが、一瞬だけ、影山の自宅マンション近くの公共Wi-Fiスポットのものであったことを突き止めた。それは、犯人を影山へと結びつける、細いが決定的なデジタルの糸だった。
同時に、舟木は現場に残された指紋の証拠に、改めて異議を申し立てる報告書を作成した。ゼラチンやシリコンで作られた偽の指紋は、本物の指が残す微細な汗や皮脂の成分を含まない 。彼は、警察の科捜研に対し、より高度な質量分析法(DESI-MS)による再鑑定を要求した 。これは、単に紋様が一致するかどうかではなく、指紋が「生体」から押されたものかどうかを、その化学組成から科学的に判断するためのものだった。
第十三章:第七会議室での自白
佐伯は、舟木の法医学レポート、後藤田のインサイダー取引に関する調査報告、そして影山へと繋がる新たな証拠をすべて揃え、湾岸署の渡辺警部補と対峙した。
提示された証拠の山は、もはや無視できるものではなかった。渡辺の表情から、自信の色が消え、困惑と焦りが浮かび上がる。警察は、茜と文子に対する捜査を中断し、極秘裏に影山をターゲットとした再捜査を開始した。
裁判所から発行された捜査令状を手に、捜査員が影山の自宅を捜索すると、書斎の奥から、犯行に使われたプリペイドスマートフォンと、ゼラチン指紋の作成キットが発見された。
湾岸署の第七取調室。逃れられない証拠を突きつけられた影山は、ついに観念した。彼は、自らが主導したインサイダー取引の全貌と、それを隠蔽するために千春を殺害し、彼女の親友たちに罪を着せるという冷酷な計画を、淡々と、まるで他人の事業報告をするかのように語り始めた。その声には感情の起伏がなく、瞬き一つしない瞳は、深い闇を湛えているだけだった。
エピローグ:空の重さ
三ヶ月後。茜と文子は、すべての容疑が晴れ、正式に不起訴となった。丸商コーポレーションの巨大インサイダー取引スキャンダルは、連日トップニュースとして報じられ、会社の信頼は地に落ちた。
二人は、物語の始まりと同じカフェで、向かい合って座っていた。テーブルの上には、三つのコーヒーカップ。一つは、今は亡き友、千春のために。
「もう、誰も無条件には信じられないかもしれない」
文子が、ぽつりと呟いた。
「うん…」茜は頷く。「でも、あなたのことは信じてる」
文子は顔を上げ、茜の目をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、涙が浮かんでいた。
乾杯の言葉はなかった。ただ、静かにカップを掲げる。友情は、炎のような試練を乗り越え、より強く、しかしどこか形を変えて生き残った。彼女たちを襲った悪夢は、心に消えない傷跡を残した 。もう二度と、周囲のシステムを、人々を、無邪気に信じることはできないだろう。
カフェを出ると、東京の夜の空気が肌を撫でた。空はどこまでも広く、そして重く感じられた。二人は、言葉もなく歩き出す。罠を共に脱出した者だけが分かち合える、静かな絆に支えられて。これから続くそれぞれの人生を、この空の下で、生きていくのだ。その空の向こうに、今はまだ見えない微かな光があると信じて。