多民族社会
1908年、撫順炭鉱労働区。
坑道事故の報を受け、後藤新平は現地入りしていた。案内役を務めるのは労務課の朝鮮系通訳官・**金英洙**であった。
坑口前に集まるのは、ほとんどが朝鮮人労働者たち。彼らは日本語も中国語も十分に通じず、事故死した仲間の遺族は、補償について何も知らされていなかった。
「……このままでは、暴動に発展しかねません」
金が低声で後藤に進言する。
「彼らは自分たちが“人間扱いされていない”と感じております。中国人よりも下だと、口にする者もいます」
その言葉に、同行していたアメリカ人顧問ジョージ・アンダーソンが憮然とした表情を浮かべた。
“That’s intolerable. No man should be ranked below another by origin.”
(許されざることだ。人間を出生で格下に扱うべきではない)
後藤は小さくうなずいた。
「私も同意します。ただし、我々が相手にしているのは、近代国家の国民ではなく、帝国の統治下にある“被保護者”なのです。そこに認識の齟齬がある」
アンダーソンは言い返した。
“Then perhaps it’s time the Empire changes its recognition.”
(ならば、その“認識”を帝国が変える時かもしれませんな)
後藤はその言葉を黙って胸に収めた。
このやり取りの後、満鉄は炭鉱地区に限って「労働者出身国別の待遇基準統一制度」を試験導入することとなる。日本人・朝鮮人・中国人の賃金、保険、住宅支給の格差を減らす措置であり、これもまたアジアでは前例のない社会実験であった。
1908年秋、奉天市街。
華人商人たちによる「不当課税」への抗議として、納税ボイコットが勃発する。
主導したのは、広東系の大商人林家。彼は奉天南市場の物資流通をほぼ一手に握る人物であり、影響力は圧倒的だった。
「我们不是殖民地的奴隶。征税必须合理、透明。」
(我々は植民地の奴隷ではない。課税は合理的かつ透明であるべきだ)
その訴えが広まり、奉天では市場が一部機能停止に追い込まれた。
対応に乗り出したのは、日本側財務局長野村甲三と、アメリカ側財務顧問チャールズ・ヘンダーソンである。
野村は強硬だった。
「納税拒否は違法行為です。商業活動の許可を一時停止する措置も検討せざるを得ません」
しかし、ヘンダーソンは慎重だった。
“Taxation without representation is always a recipe for rebellion.”
(代表なくして課税なし――反乱の常套句です)
野村は渋い顔をした。
「貴国は独立戦争を経験している。だが我が国は、いま国を作っている最中なのです」
“Then learn from our mistakes before you repeat them.”
(ならば、我々の過ちから学ぶといい)
最終的に、商人側代表と理事会との間で「租税徴収情報の公開制度」「商業会議所を通じた納税者代表制度」の導入が決定。林家はボイコット解除を表明した。
「我们不是要求特权,而是要求公平。」
(我々が求めているのは特権ではなく、公平だ)
“We are not asking for privileges. We ask only for fairness.”
(私たちは特権を求めてはいない。ただ公正さを求めている)