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摩擦と調整

経済の恩恵は誰のものか?

1907年初春、大連。

朝、霧が立ち込める港湾地区に、突如として怒号が響いた。


「我々は奴隷ではない! 賃金を上げよ!」


「安全帽も与えず、事故で死んだ仲間に補償もないとは何事だ!」


叫び声は、満洲鉄道港湾支局前に集まった漢人労働者およそ三百名のものだった。先週発生した貨物積載中の事故で、二人が圧死し、一人が片足を失った。だが、鉄道当局が提示した補償金は、僅か十円。

労働者たちは憤り、請願から抗議、そして暴動寸前の状況へと発展していた。


現場に駆けつけたのは、満鉄労務課の日本人職員・川島直治、そしてその傍らにはアメリカ側労務顧問のジョン・マクファーレンがいた。


川島は群衆に向かって拡声器を手に叫んだ。


「落ち着け! 調査中だ! 君たちの要求は上層部に伝えてある!」


だが、労働者の一人が叫ぶ。


「調査中? 何十人死ねば動くのか!」


マクファーレンが静かに川島に耳打ちした。


“We can’t just threaten them into silence. You need to listen, not lecture.”

(脅して黙らせるだけじゃダメです。聞く姿勢が必要なんだ)


川島は眉をひそめた。


「彼らは冷静じゃない。こちらの言葉が通じないときもあるんだ」


“They understand when they’re treated as human beings.”

(人間として扱えば、彼らにも分かる)


やがて二人は労働代表と直接対話の席を設けるよう手配し、数時間後には仮設の交渉テントが港の一角に張られた。



二 港湾労働者代表との応接


交渉に現れたのは、若き漢人の労働代表――孫建民スン・ジェンミン。清国の軍閥地域から流れてきた元兵士で、今は港湾荷役労働者のリーダー格だった。


孫は、多少は日本語を話せた。だが、敢えて中国語で語り始めた。

「我々不是奴隶。我们是人,我们有家人,有命。」

(我々は働きたいのです。ただ、命を軽んじるような現場では働けない。)

マクファーレンが即座に通訳する。


“We are not slaves. We are men. We have families, and lives.”

(我々は奴隷ではない。我々には家族も、命もある)


川島は腕を組んだまま、やや渋い表情を保っていたが、やがて唇を開いた。


「分かった。事故現場の安全対策は私の責任で再検討する。ただし――暴力を伴う抗議は以後厳禁だ。それを条件に、君たちの要求の一部を交渉の俎上に載せよう」


孫が、じっと彼を見つめる。

「这是底线。没有这个,什么合作都不成立。」

(補償と安全。労働者にとっては命綱です。)


“This is the baseline. Without it, there can be no cooperation.”

(これが最低限だ。これなしに協力などあり得ない)

後日、満鉄理事会労務分科会。


川島直治は、今回の件を報告した上で語った。


「……現場の統率が揺らいでおります。労働者たちの主張は理解できるが、秩序を守れぬ現場は長く続かない」


マクファーレンが、静かに異を唱える。


“And if your ‘order’ comes at the cost of justice, what is it worth?”

(その“秩序”が正義を犠牲にして成り立つなら、それに何の価値がある?)


その一言に、沈黙が落ちる。


同席していた日本側の古参官僚・星野錫が、口を開いた。


「現場では“統率”こそが命です。理想は分かるが、それで飯が食えるわけではない」


マクファーレンはなおも食い下がる。


“But we’re not building just a railroad. We’re building a society.”

(我々が築いているのは単なる鉄道ではない。“社会”そのものだ)


この言葉が、分科会の空気を変えた。


やがて後藤新平が調整に入り、港湾・鉱山地区には混成労務管理委員会が設置されることとなる。これは、日米双方の視点を持ち込んだ労働監督制度の先駆けであり、アジアでは異例の“権利と秩序の並立”の試みだった。

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