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侍が初めて空で戦った日

1916年5月21日、曇天のヴェルダン上空。

大地は泥に塗れ、爆煙が煙突のように立ち上る。そこを切り裂くように、軽快なエンジン音が南から北へ走った。複葉の小さな機体が、風に翻弄されるように空を舞っている。翼の下に描かれた「日の丸」は、まだこの空では珍しかった。


「高度1500、風、北西から毎秒六メートル、視界不良……だが、これ以上は待てないな」

滋野清武大尉が呟きながら操縦桿を握り直す。彼の機体はフランス製のニューポール11──ベベ(Bébé)と呼ばれる小型の戦闘機で、機動性は高いが武装は機首の7.7mm機銃一丁のみ。


彼の後方を二機の日本機が続く。搭乗しているのは、宮内准尉と安藤軍曹。いずれも視力と空間認識に優れた選抜隊員で、短期間の訓練で急遽前線に送り込まれた。いずれも実戦は今日が初めてであった。


無線のない時代、連絡は味方機の翼を揺らすジェスチャーと、現地通訳を交えた地上での打ち合わせに頼るしかない。英仏軍から提供された偵察情報では、ヴェルダンの北東に展開していたドイツ軍飛行中隊が、この日補給線を狙った哨戒飛行を予定しているとされた。


滋野は操縦桿を左に切った。すると、雲の隙間から、暗灰色のファルツD.IIが3機、まさに戦場を旋回しようとしていた。ちょうど、向こうも滋野達を見つけたらしい。


「よし……いくぞ」

口の中で小さく唱えると、彼は加速レバーを押し込んだ。


機体が傾き、視界が地面に吸い込まれる。急旋回で敵に回り込もうとするが、ドイツ機もすでにこちらに気づいている。先頭機が真上に急上昇し、味方機を引き離すと、そのまま半回転しつつ急降下──まさに「ブーム・アンド・ズーム」の先駆的動作。


ガガガッ!!

機銃が火を噴き、滋野の機体の主翼の帆布に数発が命中。白い帆布が裂け、木製の翼骨が一部露出する。


「くそ、思ったよりやる……!」

彼は反転し、逆に敵の下腹部に回り込むと、わずかな間合いを見て機銃を発射。敵機の尾翼が細かく振動し、弾痕が走る。


その瞬間、横からもう1機のドイツ機が割り込んできた。


「背中ががら空きだぞ……!」

だが、背後から飛び込んだのは安藤機だった。未熟ながらも機動を読み、敵機の側面に機銃を浴びせる。弾がコクピット脇に当たり、火花が飛ぶ。ドイツ機は煙を引きながらスピンを起こし、ヴェルダンの森の彼方に消えていった。


「安藤、やったか!? ……落ち着け、旋回しろ!」

滋野は冷静に指示を出す。敵機を一機退けたが、残りはまだ二機。視界の端には、宮内機がもう一機のドイツ機と激しく絡み合っているのが見えた。


「……仕留める!」


宮内の機体が宙返りを繰り返しながら、敵機と高度を奪い合う。やがて、高度1000にまで落ちたところで、彼の機銃が火を噴いた。

ドイツ機の翼がバラバラに裂け、木片と帆布が風に舞い、機体は回転しながら地上へ吸い込まれていく。

「二機、撃墜確認。第三機は離脱中」


着陸後、地上のフランス人整備士が歓声を上げながら走り寄ってくる。

「Incroyable! Ils les ont repoussés! Deux! Deux!」(信じられん!彼らは追い返したぞ!二機も!)


滋野は飛行帽を脱ぎ、額の汗を拭った。


「初陣にしては……よくやった」

彼の声は低かったが、口元にはわずかな笑みがあった。

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