雪と麦と怒りの狭間で
1915年(大正4年)4月、岩手県北部。
ようやく雪が溶けた山あいの農村では、霜が下りる朝に鍬を握る老農の背中が震えていた。
この地に住む佐々木家。三反歩の畑と一間の納屋、そして六畳一間の粗末で窮屈な家に四人家族がすし詰めで住んでいる。長女はもういない。
彼らの朝はとても早い。まだ日も昇らぬうちから、起きては粗末な朝食を取り、すぐに農作業へ取り掛かる。そんな、いつもと変わらぬ朝食を食べながら、佐々木夫妻が話す。
佐々木善作(父):「……米、残ってたか?」
佐々木トキ(妻):「米言うても、白んまいじゃねえ、くず米だ。麦三合にゃ足せるけども」
善作:「……そうか」
囲炉裏の端には干した大根の皮、去年の芋の切れ端が転がる。味噌なんぞとうに尽きた。
善作:「去年、三反で穫れたのは五俵。それを大磯の奴(地主)に三俵も取られてな……二俵で四人食ってけ言われても、なにさ、無理だべな」
トキ:「米は上がる。油も高けぇ。せっけんも買えねぇ。だのに、なんで麦の値ぁ上がらねぇんだい?」
善作:「……わがんねぇ。町に売りに行っても、“今年はこれが相場だ”言われて門前払いよ。新聞も来ねぇしな。誰に訴えりゃいいんだべ」
祖母・カネ:「……おととしの秋よな、ヒサを売ったの……」
トキ(俯いて):「置屋の旦那に泣いて頼んで……米一俵にもならねぇ金で……」
善作:「……あの晩、“戻ってくるから”言ったな、ヒサ……」
カネ:「この世のどこさ、娘売って親が生きてる顔ぁ立つか!財閥の旦那衆は遊郭によう行くと聞くに……ヒサも……」
善作は堪えきれず、囲炉裏に顔を伏せた。
善作:「やれ三井だ、三菱だ、満洲に朝鮮だと新聞は言うがな。こっちにゃびた一文も落ちてこねぇ。あいつらが酒の席で使う銭で、こっちは一年食えるんだぞ!」
トキ:「政治家様は誰一人、百姓の顔見ねぇで法ばっか決めやがる……」
善作:「……もう、畑燃やして村ごと出た方が、まだマシかもしれねぇな」
そう、ぼそりと善作が呟く。
トキ:「あんた、そんなこと……!けど、ほんとに……ほんとに……なんも残ってねぇ……」
善作の拳が囲炉裏の縁に叩きつけられ、火の粉が跳ねた。
ヒサの弟、信助は何も言わず納屋から鍬を持ってくる。
彼は来年、徴兵年齢に達する。志願するつもりだ。理由は、「口減らし」だった。
信助:「俺、兵隊になるよ。軍隊に出りゃ、いくらでも良い飯が出るんだろ。……それに、戦死すりゃ、恩給も出るんだろ」
トキ:「やめてけれ……やめてけれ信助……!」
朝日がまだ低い空を照らすなか、畑の表土はまだ凍てついていた。
そこに立つ佐々木家の影は、春が来たとは思えぬほどに、長く、痩せ細り、深かった。
だが、彼らの心の中には、沸々と強烈なやり場の無い怒りが、溜まっていた。まるで、地底に貯まる溶岩の如くーー。




