双心臓
大正7年(1918年)、欧州大戦の終結が近づく中、
大日本帝國政府はこの未曾有の特需を一過性の浮利に終わらせるのではなく、
制度として再定義するための最終的な枠組みを策定しつつあった。
帝國議会では「帝國経済構造調整令」が可決され、以下のような原則が明文化された:
•内地は「技術・資本・政策の中枢」として、加工・研究・行政を担う
•外地は「資源・労働・生産の基盤」として、素材供給と中間加工を担う
•両者は相互補完関係にあり、教育・物流・金融において継続的な接続を制度的に保障する
この制度は、俗に**「帝國の双心臓」**と呼ばれるようになった。
内地が思考し、外地が動く。その間にあるのが、制度と輸送と信頼である。
民間でもこの枠組みに応じて、以下のような再編が進んだ:
•内地都市銀行による外地鉱山・工場への信用供与の増加
•満洲・朝鮮・台湾における工業学校と内地企業の採用直結制度
•工作機械国産計画に外地部品の一部調達が制度的に組み込まれる
一方で、この制度の維持には継続的な教育、資本、そして国際協調が不可欠とされた。
東京帝国大学の経済学教授・松川正一は、ある講演でこう語った。
「帝國は、いまや単なる領土の集合体ではなく、制度によって機能する経済有機体である。
そこに血を通わせ、鼓動を維持するには、不断の刷新と信頼の注入が必要である」
こうして大正期末に至り、帝國はようやく
**産業・貿易・教育・輸送のすべてを含めた「複合的経済圏」**としての自画像を描き始めていた。




