統合
明治末から大正初期にかけて、「国民統合」は国家の至上命題となった。
祝祭日、教育勅語、標準語、皇室儀礼、服制の統一――それらは「一億一心」を理念とする同化政策の道具でもあった。
だが、その一方で、「差異」は静かに残り続けていた。
北海道・旭川の学校。教壇に立つ教員が、授業のあとアイヌの少年を呼び止める。
「タカノくん、今日は元気なかったね。どうした?」
「……うちでは、家で父さんがアイヌ語を話すんです。でも、学校じゃ使うなって言われて……」
「そうか。でもね、先生は、君の言葉を大切にしてほしいと思う。大切なのは“誰の子どもか”じゃなく、“どう生きるか”だよ」
一方、沖縄・那覇の教場では、「方言札」が机の上に置かれ、教師が厳しい口調で叱る。
「方言を使ってはならぬ! それでは“帝国の児童”にはなれんのだ!」
こうした場面に象徴されるように、「統合」はしばしば「排除」を伴った。
都市では華族や官吏子弟の言葉が“標準語”とされ、地方の抑揚や語彙は「恥ずかしいもの」とされていった。
植民地では「日本人として振る舞う」ことが期待され、現地の風習や宗教は黙殺されることもあった。
だが、そうした中でも、小さな“残響”は残り続けていた。
朝鮮の少年が夜、祖父から昔話を聞く。
台南の主婦が祭日にだけ神棚に祈る。
北海道の漁師が熊送りの歌を口ずさむ。
それは、「国民」となる過程で切り捨てられそうになる“何か”を、密やかに守ろうとする営みだった。
文化の統合とは、決して一方的な押しつけではない。
同じ歌を歌いながらも、そこに響く声の高さや揺らぎは、土地ごとに異なる。
「帝国」は確かに一つの器であった。だが、その中には、数知れぬ形の水が注がれていたのである。




