表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/80

講和か、継戦か


ポーツマスでの講和交渉が現実味を帯びていく中で、桂内閣には見えざる重圧がのしかかっていた。国内では海戦の大勝に沸く国民が、まるで「当然の結果」のように、莫大な賠償金とロシアの屈服を求めて声をあげていた。


「――講和などあり得ぬ! 国賊政府を倒せ!」


明治三十八年六月、東京市内では、講和に傾く政府への抗議集会が続発し、いくつかは暴徒化し始めていた。新聞各紙は論説において「賠償なき和平は敗北に等しい」と煽り、政治家たちをして頭を抱えさせた。


内閣では、首相桂太郎が焦燥の色を隠せずにいた。彼にとって今、最大の難敵は軍部でもロシアでもない。味方であるはずの政友会と、そして――山縣有朋その人であった。



六月十日、閣議後の別室。

桂と小村寿太郎が密かに対話を交わしていた。


「……桂閣下、正直なところを申します。国内世論は制御不能に近づいております」


「わかっておる……。わかっておるが、今ここで戦を続けるなど、狂気の沙汰だ」


小村はその眼鏡の奥に、一抹の諦念を浮かべていた。


「講和は戦略として正しい。だが、正しさだけでは政はできぬ。それを証明するのが政治家でしょう」


桂は息を吐き、しばし沈黙した。小村は誰よりも有能な外交官であったが、同時に冷徹すぎると評されることも多かった。現実主義と理想主義の狭間に揺れる桂は、彼のような男に助けられつつも、その非情さに距離を感じてもいた。


「……山縣公は、まだ賠償と樺太の割譲を強硬に主張しておる」


「ええ。あの方は、勝った戦は全てを得るべきだとお考えです」


「伊藤公とは、もう話し合ったのか?」


「はい。伊藤公は、和解の道を模索されておられます。ただし、“国民の怒りを吸収する装置”を用意せねばならぬと」


「装置……?」


「すなわち“英雄”です」


小村は、意図を含んだ口調で言った。


「海軍を持ち上げ、国民の感情を満足させる。東郷大将、そして秋山真之といった勝者たちを、国威の象徴として扱えば、民衆の怒りの矛先は幾ばくか逸らせましょう」


「国威の英雄で国民を黙らせる、か……」


桂は皮肉めいた笑みを浮かべた。だが、それは現実的な策だった。日本海海戦の映像や絵葉書はすでに市井に出回り、東郷らはすでに“活きた神話”になりつつあった。


「では……その英雄たちを、表舞台へ立たせるか」


「そして、その裏で我々は、講和という冷徹な現実を遂行するのです」



同日夕刻。赤坂の元老会議。


山縣有朋は、重々しく口を開いた。


「……帝国は勝ったのだぞ。ならば勝者にふさわしい果実を得ねばなるまい。賠償なき講和など、弱腰政府の象徴に他ならぬ」


その傍らにいた伊藤博文が、穏やかに応じた。


「果実を得たければ、まず木を枯らさぬことです。有朋公。戦を続けて国が破れれば、勝っても意味を失いますぞ」


「破れるとは、弱気な……!」


「では尋ねます。有朋公、陸軍にまだ余力があるとお思いですか?」


伊藤は、山縣の目を見据えた。


「輜重は?兵の士気は?……これ以上、一体どこで戦い、どこで勝利すると言うのです?」


「……」


「我らは武をもってして、相手を打ち負かした。それ以上、何を望むのですか?」


会議室には、一瞬の沈黙が流れた。


それを破ったのは、意外にも西園寺公望だった。


「国民の感情を満足させる講和を……つまり、結果だけを見せればよい。交渉の中身は、多少譲歩があっても、外には“勝利の印象”を与えればいいのです」


「印象操作か」と山縣が苦々しく言った。


「ですが、それがまつりごとというものです」と西園寺は微笑した。



このあと、日本政府は正式にルーズヴェルト大統領に講和仲介を要請し、ポーツマス講和会議へと向かう準備を整えていく。だが、その舞台裏には、今後の外交・経済・国家戦略を大きく左右する「一通の提案」が、密かに届こうとしていた。


その名は――ハリマンの共同鉄道経営案。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ