生きづらさ
明治末から大正初期にかけて、日本の農村部は都市とは異なる時間の中にあった。
近代化は主要都市を中心に進んでいたが、全国の農村では、生活の形式も、家族構成も、思考様式も、ほとんどが「江戸の延長」にあった。
信州・北佐久郡。小高い丘に抱かれた村の一軒家に、養蚕農家の石坂家が暮らしている。明治四十四年の晩秋。薪がくすぶる囲炉裏の端で、母・みよと次女のさと、そして出稼ぎから久々に戻った長男・三郎が茶をすすっていた。
「兄さ、町はどうだった?」
「……うん。人が多い。みんな急いで歩いてる。でっけえ建物もあるし、ああ、こりゃ帰ってくる場所じゃねえと思ったな」
「じゃあ……あたしら、ずっとここにいるんかな」
「そうなるな、さと。でもな、町で見たもん全部が、良いってわけでもなかった」
母・みよが口を開く。
「そうさね。おらの若いころも、町に出た娘たちがいたよ。でもな、いっぺん行けば、もう戻ってこねえのさ」
農村の暮らしは依然として小作制度に支えられていた。地主から土地を借り、毎年の収穫に応じて三割、あるいは半分を納める。雨が少なければ収入は減り、納め物は変わらず、借金だけが膨らむ。
春には田を起こし、夏には雑草を抜き、秋には米俵を積み上げて納屋に運ぶ。冬は養蚕と炭焼き、そして来年のための下準備に追われる。
年間通して休みはなく、金もほとんど残らない。
村の集会所では、夜になると若者が集まって焚き火を囲む。
「おら、来年こそ東京に行って職工になる」
「工場って、危ねえんだろ? 指、なくしたやつもいたぞ」
「だけど、ずっと田で土いじりして、年貢みたいな小作料払って、何が残るんだ。うちなんか今年、蚕が病気で三度も全滅したんだぜ」
その声に、年配の青年がぽつりと言った。
「だがな、東京に出て、うまくいくやつなんて一握りだ。村に残って生きるってのも、意地なんだ」
彼らは都会に希望を抱きつつも、村に残る者への引け目と、誇りの間で揺れていた。
ある夜、若い娘たちが手習いの帰り道、田の畦道で立ち話をしていた。
「おら、女学校に行けたらなあ。先生になって町に出るだよ」
「わたしゃ、そんな夢見ねえ。どうせ十五で嫁に出される身だ」
「でも、都会の女は働いてるって聞いたよ。店で帳簿つけたり、タイピストってのもあるんだって」
「タイピスト? そりゃ何だ?」
「英語で書くんだと。ばちばち打って、紙に字が出るらしい」
笑いながら話すその横顔に、「外の世界」を夢見る淡い光が浮かんでいた。
だが、村に戻れば、現実は変わらない。冬には雪が積もり、家の中に寒さが染みる。囲炉裏を囲んで、今日の米をどう炊くか、明日の天気はどうか、父の咳は収まるか――話題はただ、それだけだ。
そんな日々のなかで、都市と農村との「格差」は、金や情報の違い以上に、**“将来に対する見通しの明暗”**として、確実に拡がっていた。
そして農村は、静かに、自らの居場所を問い続けていた。