変貌
明治三十年代後半から四十年代初頭にかけて、日本の主要都市は急速に近代都市としての輪郭を強めつつあった。東京、大阪、名古屋、横浜、神戸といった都市は、鉄道の網が張り巡らされ、馬車や人力車の時代から、路面電車が町の主役となりつつある。東京市内を走る東京市電は、白木のベンチと真鍮の手すりを備え、女学生や洋装の商人を乗せて、銀座から上野を結んでいた。夜には白熱電灯が通りを照らし、看板には「活動写真」「電報取次」「洋食」の文字が並び、明治初年には想像もしえなかった風景がそこにあった。
東京・日本橋。明治四十五年春。
路面電車ががたん、がたんと通り過ぎるなか、三階建て煉瓦造りの呉服屋「鶴屋」は、開店準備に忙しい朝を迎えていた。店の表に打ち水をしながら、店主の山中弥兵衛は、若い丁稚の茂吉に声をかける。
「おい、茂吉。今日は南千住の旦那衆が一揃いで来ると聞いとる。帳場も裏も、いつも以上に気をつけろ」
「へい、旦那様。あの方々は…例の、新しい洋反物を見に来るんで?」
「そうだ。最近は洋反物や襦袢地に柄が要るらしい。娘の嫁入り支度でも、東京で誂えたとあれば、それが一種の“体面”になるらしいわ」
「…じゃあ、着物じゃなくてもよい時代、ですかねえ」
「いや、着物はまだまだ本筋じゃ。だがな、茂吉。今やおなご衆は、活動写真を見て、洋髪に憧れ、女学校へ通う。変わるんだ、町も、人も。商いも、だ」
弥兵衛は手拭いで額の汗を拭いながら、銀座通りの向こうに見える白壁の時計塔を見つめた。その目に浮かぶのは、変わっていく東京の姿であった。
通りを挟んだ向こうには、「中村活動館」の看板が掲げられていた。今週は“世界大戦絵巻”と題して、英国とドイツの艦隊が戦う映像が目玉だという。
「旦那様、あっし、昨日の晩、あそこ行きやしてね。すげえもんでしたよ、船が海の上をどかんどかんって砲を撃って…こりゃ、まるで本物の戦だと思いました」
「そうか、茂吉。じゃあ今度、品物が揃ったら、うちの奥にも一度連れて行ってやろうかね」
「へい。でも、奥様は…『あんなのは心が荒れる』って」
弥兵衛は小さく笑った。
「そりゃまあ、そう言うじゃろうな。だが、時代は変わる。女も、子も、商いも…全部が“文明”の中に組み込まれていくんじゃ」
丁稚の茂吉は、じっと銀座の方を見た。あの通りには人があふれ、洋装の男たちが腕時計を見ながら歩き、女学生たちはリボンを揺らしてすれ違う。
かつての江戸ではなかった。だが、これが東京なのだと、彼は思った。
明治四十年代に入り、日本の都市社会では「暮らし方」の標準が目に見えて変わり始めた。
かつて町人と呼ばれていた層の中から、独立した商店主、小規模工場の経営者、鉄道・郵便・銀行といった新しいサービス業に従事する人々が登場し、一定の安定収入を背景に「家庭を築く」「教育に投資する」ことを人生設計の軸とし始めていた。
東京・本郷区。明治四十五年の初夏。
帝大予備門の近く、杉並木の陰に佇む小さな木造の家。その家に暮らすのは、教員の**川村恒三**とその家族である。恒三は東京市立の尋常小学校で教鞭を執る三十七歳。妻・里江と二人の子を持つ、いわば「中産層の標準」ともいえる家庭だ。
ある夕刻、食卓を囲んでの会話――。
「父さま、学校の帰りにね、えっちゃんちがレコードを買ったって言ってたわ。なんでも蓄音機ってのがあるんですって」
娘の千代は、まだ八歳。机の上には女学校の案内冊子と、最近読み始めた『女学世界』が置かれていた。
「ほう、えっちゃんちは呉服屋の一人娘だっけ。まあ、立派なもんじゃないか。でも、音楽より先に習うことはたくさんあるぞ、千代」
「分かってるけど、あたしだってピアノが欲しいの。ね、母さま」
里江は苦笑しながら味噌汁をよそい、夫と娘のやりとりを静かに眺めていた。
「千代、お前にはまず立派な女学生になってもらわなきゃね。ピアノはそのあとで。お父さまも応援してくださってるわ」
「うん……。じゃあ、明日も漢字の書き取り頑張る」
恒三は娘の頭を撫で、ふと天井の梁を見上げた。
「この子らが大人になる頃、いったいどんな町になってるのかね。……鉄道も走り、電話も鳴る。西洋の真似事ばかりだと笑う者もいるが、私はな、もう“真似事”じゃないと思ってる。日本の暮らしが、“日本の形のまま近代”になろうとしている気がするよ」
こうした「家庭を中心とした教育と文化の再編」は、中産層の意識の中で着実に根を下ろしていた。
このような家庭では――
•子どもに小学校高等科や実業学校への進学を期待し、
•母親は「良妻賢母」たるべく裁縫・算術を学び直し、
•家計簿をつけ、日用品や米の価格を新聞の折込で比較し、
•日曜には家族で浅草や上野の博覧会を見物し、•月末には「今月の貯金」を白木の帳面に記す。
――これらが「生活の美徳」であり、「中流の証」でもあった。
また、家の中に置かれる物もまた、この変化を象徴していた。
•壁掛けのカレンダー(企業の贈答品)
•写真付きの家族肖像(和装と洋装の混在)
•算術用具と英語の教本
•教育勅語を額に入れた掛け軸
•蓄音機、卓上鏡、アルミ鍋、東京電気の白熱灯(※電灯は一部地域のみ)
これらの道具たちは、かつての“江戸の家”にはなかったものであり、「生活の近代化」が具体的な形で進行していたことを示している。
このような家庭が、日本全国にどれだけあったかは定かではない。だが確かなことは、こうした生活の中に、“家族”という単位を通じて「近代国家の構成員」としての意識が、静かに芽吹いていたということだ。
そしてまた、こうした家庭に育った子どもたちが、やがて教師や役人となり、あるいは商社や銀行に勤め、さらには外地へ赴任していく中で、日本型近代社会の担い手として形成されていくことになる。
それはまだ、歴史の表には見えていない。だが確実に、家庭の食卓から始まっていた。